★ ~ さまざまなる宗教画や、仏像の中には、そのこと(性行為)が主体となって描かれているものが多くあり、またシンボルともなっておりましょう。男神と女神がいかにも逞しく、おおらかに互いを抱き、睦み合う姿が白日のもと、人々の前に置かれている ~ にもかかわらず、私達にまつわります宗教、あるいは教えの中にありましては、それら男女の交わりのことは、かたく秘められたものとなってしまっているのです。
⑦-113
信仰と宗教
④ー38
★ ~ 人が今まで悪と見、善と見てきた人々の心や姿、~すべては、神なるものの、いまひとつの姿であったということを、人々の前に明らかにすることに致しましょう。~すべての善悪の仕組みは、いま大きく変換されようとしています。
③ー102
★ ~ 神は、さまざまな人の心に悪とは何か、善とは何であるかを示されようとされました。その為にはどうしても悪魔ベルゼブルでありますとか、東洋的には、地獄の赤鬼、青鬼、あるいは閻魔大王のような役者を登場させる必要がありました。実際は、そのような場所はないのです。
★ ~ たとえ人々の目に悪しき事と思えしことも、見えし事柄の中にありても、その裏にあるは、かならず神の成就されし御心のみことである。
また、悪しきことをも認めたまえ。知りたまえ。
それもまた神の心のあらわれであると知りたまえ。
②ー29
★ ~ また人々の暮らしの中にありては六日を働き、七日目を憩いの日となし、神を愛でたてまつる日と定める事とはなった。
~ いつの頃よりかは知らねども、いまを生きるさまざまなる人々の暮らしの習いとはなったのである。
~ キリスト教にあらず、ユダヤ教にあらずとは申しても、その中にて生きるは、このように定められし神の思惑あることに気づこうものを。
★モーゼの時代の事に関して、少しお話ししてみたいと思います。
~聖書にあまり関心の無い人々にも、モーゼの名は良く知られています。
~おそらくは、映画《十戒》によるものと私達はみています。
~ なぜ神は、あの時あのようにして、ひとつの民族を選び取り、特別に育て上げようとなさったのでしょうか。
他にも民人は沢山住んでいたのにです。
①ー122中段
★イエス様に致しましても、私(マリア)に致しましても、至高なる神の御心を皆様に伝える者として存在しました。
ですから、私達は、神を表現するものでありましても、神そのものではありません。
~私やイエス様を、神そのものであるかのように仰ぎ見た人々もおりますが、形はどうであれ、神への信仰の現れであることに変わりはありません。
①の94上段
やはりまだ多くの人々は、私(イエス)達のように神との間に立つ者を必要としてきたのです。
もはや、私達を通じて神を知る、そのような時ではなく、各々が直接神を知る時に至りました。
①の94後半