無量大数 (山田征さんのチャネリング)

山田征さんのチャネル(1988年から数年)を抜粋編集して紹介

2016年12月

バイブルの真実

◎ なまじ聖書など知らぬ者には、私達のこの肉体を形づくり、生命を維持しているものは、『非常に高度なエネルギーそのものであります。』と言った方が、ずっと通じやすいのです。

◎ バイブルには、もっと大きなものが隠されています。表面的にだけとらえますと、いろんな矛盾が生じますが、その奥には宇宙の大きな、気の遠くなるようなドラマが秘められているのです。

 山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 

◎ 社会の人々のほとんどが、神の民として選ばれたイスラエル民族のことを、いわゆる ”選民” という言葉で言い表してまいりました。 ~ 本当の ” 神の民 ” の意味は、、人々の前に指し示されました ” 犠牲の民 ”であったのです。それは、まことに私イエス・キリストが、神の生贄(いけにえ)として十字架にかけられ、人々の前に示されたのと同じ形でした。

◎ あの書物は、一般に思われていますような、いわゆる 《 道徳の書 》 ではありません。神によって、神の道を生きることを命ぜられた、一つの民族の生きた証の書物であるという事なのです。~ その中には、様々に生きる人々の、ありとあらゆるひな型が示されているのです。肉の身にあって生きる者の何と弱きものであるかを、あの書物は、あますことなく記録いたしております。


◎  私イエスの教えはあくまでも、最も貧しい人々のものであり、最も力を持たぬ人々にもまた、神は同じように愛の心を差し向けていられるのですよ、ということを伝え、希望を持っていただくことでした。もちろんそのような人々の為だけとは申しませんが、~ 『神の愛、神の心は、全ての人々に同じように注がれているのですよ』と言う事を伝えてあげたかったのは、まずそのような人でした。

◎  時代が変わってまいりますと、小さな集落ごとにありました集会の場も、いつの間にか、立派な、それこそ神への礼拝専用の建物が造られていくようになりました。旧き宗教、信仰形態を破ったはずのものが、すぐまた元の形となってしまったと言えなくもないのです。

◎  人々は、いつでも十字架の裸の私に祈りを捧げる者となったのです。直接神なる存在へ思いをつなぐのではなく、イエス・キリストとしての私を通して、神へ祈りを捧げることになりました。 ~『偶像は拝まない』としながらも、私にかたちどった、さまざまなる偶像に手を合わせる者となりました。人々は、いえ、多くの聖職者は、そのことの矛盾に、いささかも気付かずにこの時まで来てしまったのです。

◎  私イエスは、神の御心と同じように、人々の心の在る所にはどこにでも等しく在るものである事を知っていただきたいのです。どのように立派な教会が建とうとも、宗派が出来ましょうとも、私達は決してそのような物の中にとどまる者ではございません。

◎  あのアダムとイヴのお話が誕生いたしました時、この地上にはすでに、他の多くの民族の生存があったと言う事を知る必要があります。~アブラハムを更に逆のぼること二千年の彼方に、このドラマの始祖であるべき、アダムとイヴが何故置かれたのかを、もう一度、あなた方は考えてみなければいけません。ただ額面通りに、あの聖書を読んでしまってはいけないのです。これらの事柄は、決して恐れることなく、今こそ人々の前に明らかにしていくべき時に至っているのです。

◎  現代社会の機構の中では、聖書に記された事柄と、科学的に見る進化論とのあまりの差、ギャップにあい、 ~聖職者の中にありましては、神への信仰と、科学の世界での事実関係との間を、どう埋めたら良いのか、どう理解すべきかに苦しむ者が多く存在いたしております。

◎  今ここに来て、どのように大きく世界が変化し宇宙的な出来事の中に 私達が存在しているかを知るべき時でありますのに、彼ら聖職者はまだ、ひたすら聖書の中にだけその答えを見ようとしています。もちろん、聖書も本当によく読み込んで下されば、これらのことの片鱗は、そこかしこに散りばめられ語られているのですが、その大事な言葉の大部分は、この歴史の中で、無理解と無知の上で切り捨てられ抹殺されてしまっているのです。

◎  これら天地創造の物語は、いわゆる、あなた方の言う一元的な物の見方だけでは、解決いたしません。このことにより、いわば科学的進化論が正しいとか、聖書の記述は間違っていると言ってしまうことは出来ません。そのどちらも真実であると言いますことを今のあなた方に理解を求めるのは難しいのです。


 

神の本質

◎ 善き人になるために神を求めるのではなく、あるがままの自分をよく見つめ、あるがままの他の人々も、よく認め合うためにこそ、人は神を求めて止まないのです。

 山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 

◎  いつの時代にも必ず、仲介者なしに直接神の声を聞き、神を感じる事が出来た人々がおります。そうした人々の思想の中には、必ずと言っていいほどに『 自分を知りなさい 』というものがあります。『 全ては自分の中にある 』、全ての解答は、自分の中に秘められているのですよ、という事を伝えているのです。

◎ 日常的な、あまりに日常的な事柄だけに目を止めていないで、時には 『 神にまつわる事柄にも目を向けて欲しい 』と私達は心より願っているのですが、やはりそういう意味では、宗教といいますものの果たした役割は、とても大きいと言わざるを得ません。

◎ いまあなた方が、始めようとしています事柄は、大変大切な事になってまいります。何しろ、宗教や教会、寺院、そして宗教的な組織といいますものを離れた所で、神そのものを体現していこうというわけなのですから、そのことこそ、多くの人々の心から納得させ得るものとなりましょう。

◎  もはや、私達(不可視世界の人達)を通じて神を知る、そのような時ではなく、各々が直接神を知る時に至りました。私達はそのことのお手伝いをさせていただくのです。

◎  人は、どのように些細な事柄でも、その一瞬一瞬の心の判断で動き、生き続けているのです。その一瞬一瞬を司るものは何でしょうか?この広大な宇宙の中に、一瞬一瞬の時が存在いたします。時とは、まさにその一瞬しかないのですが、その一瞬一瞬が重なり、つながってまいりますと、人の心には、時間、時の流れとして自覚されていきます。その一瞬一瞬を司るものこそ、神そのものです。その一瞬一瞬の神の心に、全てを委ねていけば、それなりの判断が生じてまいります。そのことが、『神にすべてを委ねる』という事でありましょう。

◎ 神の司る一瞬一瞬の時の流れに任せ切る心が、全ての空間を、なんの障害もなく流れてまいります。そこには、多くの人々の想念も同時に存在いたしますので、うまく流れるもの、非常にゴツゴツと流れをせき止めてしまうものなどがあるのですが、その中にありましても、その時のあなたにとって一番良い、必要とされる判断がなされてまいります。現実的な目から見て、それは決して良い事ばかりではありませんが、神の時 とは、そのような目では計ることの出来ないものなのです。

◎ 自分に起きる事柄は、すべて、自分自身にとって必要な事柄であるという事を認めることです。いまは、自分の身に起きる全ての事柄は、全て自分自身の責任であるという事を知ることを伝えましたが、それはとりもなおさず、あなた自身の中にある、神に委ねた結果である、という事なのです。
 
◎  日常生活の中の、どんなに些細な事柄の中にも、それなりの神の摂理が隠され生きております。それをしっかりと感じとる人々が、確かにいらっしゃるのです。変化に富む中で、自分を見失う者もいますし、あまりに変化がなさすぎる中で、自分をつかみ損なってしまう人達もいます。

◎  人々はまず自分の直感と言いますものを良く活用してくださいますようにと申し上げます。生活の中の様々な出来事の中で、そのようなものを感じ取った時は、あまり理論的に考えすぎないことです。理屈で判断し直そうと致しますと、もうそれは直感としての働きを失ってしまいます。

◎  ヒラメキ、あるいな直感の働きを感じたものには、自分を委ねてみることをお進めしたいと思います。

そのことの積み重ねが、一つの訓練となり、私達(天界の人達)との回路をつなぐ道筋を作ってまいります。

◎  『物事の判断を決して他に委ねない』と言う事です。これを、自分の物にできるかどうかが、一つの鍵ともなりましょう。そこに、《他の師を求める必要のない自我の確立》が生まれます。自分一人で立つということです。

◎  決して悪い事はしないし、人の悪口も言わない、怒ることもないといったような事を指して言うのではないのです。そのようなことは、皆様もどうぞおやり下さいと申しましょう。(*積極的にやる必要は無いと思いますヨ)

そのような末梢的な事柄ではなく、全ての根本において、全き神に信を置くということです。そのような姿が保てるようになりますと、宗教的な組織や、政治的組織、組合的なもの等、組織的なものに決して束縛されることがありません。


◎ 現代と言いますこの時は、かつての時のように、一人の目立った人物、救い主と呼びましょうか、そのような者を必要と致しません。あまねく一人一人の胸の内に、偉大な救い主は宿ります。なぜなら、肉の身にありましては、必ず限界と言うものがあるからなのです。

◎  いまあなた方が、始めようとしています事柄は、大変大切な事になってまいります。何しろ、宗教や教会、寺院、そして宗教的な組織といいますものを離れた所で、神そのものを体現していこうというわけなのですから、そのことこそ、多くの人々の心から納得させ得るものとなりましょう。

◎ この世的な知識の取得と神の信実を伝えますことは、決してつながっているものではないと言う事なのです。何より大切なことは、学問的な事柄ではなく、何にも増して神への信を貫くという心根と生きる姿と言って良いのです。

◎  いま貴女は、猫の絵=ただひたむきに何かを見つめる、愛らしく美しい瞳に魅せられてしまっていました。

そうです、このように美しく素直な姿と心が、私たち人間のあいだから、本当に失われてしまったのです。いま、第一に私達が申し上げたいことは、このような心と姿で、神の方に向き直っていただきたい、と言う事です。

そういたしますと、全ての事柄は、本当に素直に人々の心に映るようになることでしょう。

◎  人々の心に、真から神を求め、救い主を求める心が育った時に、メシアが現れるという事です。そのような心が人々の心に育たなければ、神の化身は、人々の中に降下し得ないという事なのです。人心が乱れ、心の波動が荒みきった所には、神的な波動を持った肉体は、同調し得ないということを、あなた方は知る必要があるのです。

◎  また、今となりましては、人は他人によって救われるものではなく、その人その人の内的な何かによって救われていくと言いますか、気付かされていく、という事なのです。これから先のあなた方が、まず初めに知るべきことは、自分の救い主は自分であること、自分が自分を一番よく知り、自分を開いていけるものであることを、よく知る事でありましょう。

◎  人々が救われると言いますことは、結局は人々の心の中から、本来の愛ある心が溢れ出すようになることに他ならないのです。

自分自身 奇跡、時代の変わり目

◎ この世で感じる長い時間的な経過を、ある種の秘儀により、極度に短縮し、即座に表す(実現してしまう)ことも可能であると言う事です。それらのことは、私達の歴史の中には、ほとんど史実と言っても良い形で記録され、表現されております。この事もまた事実なのです。前にも申しましたように、私達の前には、全てが完了された一つの次元しかないと言う事です。

 山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。

◎  目的を見失った若者の場合は、 ~ 自分が世の中の全ての出来事から切り離され、まるで糸の切れた凧のように、はてしない中空を、あてもなく漂っているかのように頼りなく、寂しく、不安な状態に置かれてしまうのです。彼等をどのようにして本来の生きる目的の中に連れ戻すことが出来るか、この都市空間の中に、ひっそりと埋没してしまっている彼等を、どのようにして見つけていくことが出来るかを、私達も共に考えていく必要があります。

◎  取り敢えずは、日々の暮らしの中で、まず自分自身の置かれた場所、立場の中で、自分の在りようを、しっかりと見つめていくと良いのです。もちろん自分以外の他の人達にも目を向けていくことは、大切な事ではありますが、まずは自分であると言う事です。良きにつけ、悪しきにつけ、その時その時の自分の姿が、他の人々をも映す鏡ともなりましょう。自分が非常に安定して、良い状態の時には、ひとの事、世の中のありとあらゆる事柄を、その心の状態で見ますので、非常に落ち着き、冷静に、しかも温かく見ていくことが出来ます。

◎  今回の時代の変わり目と言いますのは、彼、ルシエルの出番となります。

彼によって支えられて参りました、悪なるもの、闇なる部分は、いまこそ取り除かれていく時となりました。

その事により、彼は彼本来の美しい姿に戻ります。と言いますことは、あなた方全ての者が、その本来の姿に立ち返ると言うことになるのです。

◎  世の中の様々な事も、丁度この霧の中に隠された真実の姿のようなものなのです。本当の姿が見えなくなってしまっているのです。わかるのは、いま自分が生きている、その、足元のところだけなのです。でも、その足元をよく見つめ、気を付けて一歩一歩進んでいけば、決して道を外れ、崖から転げ落ちる事もありませんでしょう。どのような姿のものの中にも、真理といいますものは、潜んでいるものなのです。

 ◎  本当に些細な事、風のそよぎ、小鳥のさえずり、何気なく交わした人との会話、ふと見上げた星空のまたたき、そのような事の中から、ふるえるほどの心の感動を覚える、と言った魂の存在もありましょう。そうです。この世の中には、ありとあらゆる学びの素材が満ち溢れています。あらゆる魂レベルの人達が共に生活しています。これ以上の学びやはありません。このように、変動の激しい時にこそ、人々は大きく覚醒できる事を知っています。ですから、なんとかしてこの時代に、肉の身をもって生まれて来たいのです。


不可視世界

◎ いずれにしましても、、目の前に見える世界だけで、物事を判断しすぎているのです。それがすべての世界であるかのように、錯覚をしてしまっていると思います。

◎  肉体を持って生きる者にとって、私達不可視の世界の者への関心は、一種独特のものがあります。一度かいま見てしまいますと、それはまるで、禁断の実でも食べたかのように、人をとらまえて離さなくなります。もっともっと知りたいと願うようになっていくものなのです。なぜなら、この事こそは 《 人間の持つ本質への回帰 》であるからなのです。

◎  私達は、まず視えない存在として話していますが、それでも人間としての生活感覚をまともに受けながら話す場合もあるからです。そのような時は、私達はあなた方人間と、ほとんど一体となってしまっています。

◎ あの一寸先も見えない、霧の世界の意味することを考えてみるとよいのです。私達はすべて、自分の目でしっかりと見据えているつもりでも、本当は、あのように何も見えていないのです。 ~ 実は見えていない世界の向こうにこそ、本当に私達が知るべき世界が実在していることを知って下さい。

  山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。

カルマ・過去世~輪廻転生

 山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 

◎ 《 他生の縁 》つまりは、他の過去世のいずこかにあって縁があった人と言う事でございます。そうした人々が、また今世でもこのようにして、自分の過去で学び残したものの学びのために、この地上に共にあると言いますことを、ぜひ皆様には自覚していただきたいのでございます。

◎ 今ある姿は、つの役として選び取ってきた姿であると言いますことを、知っていただきたいのでございます。ですから、この世で受けております富も、地位も、権力も、全ては一時的な預かりものであり、何一つ皆様にとって本当に必要なものはございません。

◎ 「ご飯を食べてすぐ横になると、今度生まれてくるときは、牛になっていますよ」と言ったような・・・、もちろん宇宙の大きな営みの中で、進化と言うものはありますが、いま申しました形のでの転生(動物への転生)と言うものはありません。人は人へ、他の生き物たちも、その種のあり方に沿って、 次々と新しい生命をつないでまいります。中には、突然変異といった現象も生じますが、それはいわば、『神のイタズラ』とでも考えていただければ良いと思います。


◎ 例えば、自分はこんなにも誠実に生活し、生きようとしているのに、なぜいつもこんなに貧しく、不幸な出来事にばかり遭遇するのだろう、という人にとって、ほんとうに申しあげねばならないことは、やはり、その事の原因はすべて貴方自身の中にあるのですよ、ということです。

◎  一人の人の生きる姿勢によって生じてしまった原因は、その人のその時の生だけでは解決できない質(タチ)のものが沢山あります。ですから、その生では刈り取らぬまま(刈り取れないまま)次の生に持ち越してしまいます。次に生まれたときは、すでに自分が前世でつくり出してしまった原因を忘れており、結果の部分だけで自分を見る事になってしまいがちなのです。

◎ どのように残酷で、過酷に思える出来事の中にも、 それはそれなりの訳があるのだと落ち着いて考えてみて下さい。でも、まだ起きた現象に即座に振り回されているうちは、それはそれで仕方のないことです。それもまた、あなた自身の姿であるのですから、そういう自分を受け止めてまいりましょう。

 ◎  死後、今まで肉体に閉じ込められていた霊魂は自由になります。~自分と同じ波動世界へ、迷うことなく引き寄せられ、その世界に於いて、次の出生のチャンスを待つという事になります。

◎  今がこの地球上での最後のチャンスであること、つまり、人々が長い歴史の間に溜め込んできてしまった多くのカルマについてのことなのです。何回も何回も生まれ変わりつつ、徐々に解消していくことが、ほんとうは理想的ではありますが、今回はそのような状態ではない!という事なのです。これからの短期間の間には、実に様々な恐ろしい出来事が巻き起こることでしょう。しかし、その時こそ、人々の魂は己のカルマの精算が出来ることを知っているのです。しかしこのことは、少し言い方を間違えますと、大きな誤解を招きます。

◎  今の段階では、いったい誰がどのような事になるか、何も解らないのです。しかし、多くの人々が、一般的な知識として、このような概念を受け入れるかどうかは、大きな問題です。受け入れたことにより、おそらくその日から、自分と自分のまわりに起きる様々な出来事を、非常に冷静に見る事が出来ていくはずです。

◎  あの映画「十戒」の全体像から何を感じるでしょう。全ては役回りです。だれ一人として、ただ偶然にあのような立場に置かれたのではありません。あの物語は、全き神の心から意図されたものであると同時に、多くの人々にとりましては、さまざまな 《カルマの解消の場》 でありました。人々は、あのドラマに心から喜んで参加したものであることを知って下さい。

◎ 彼ケーシーの時代、 いま私達(天界の人達)が最大のテーマとしています 《 輪廻転生 》の概念は全く受け入れられる要素はなく、むしろ、神の冒瀆とさえ言われるような状況だったわけです。しかし、私達がこれから迎えようとしています時代は、たとえ人々の信条が何であれ、この概念を受け入れることでしか成り立たない事なのです。

◎  ケーシーとシャーリーの著作は、この大事なテーマ  《輪廻転生 》 に関する、最も解り易く、信憑性の高いものであると思います。もちろん他にも様々な人によって、同じような事は語られていますが、それはそれで、その魂に属する人々の手にしっかり受け止められていきつつあるのです。

◎  みなさんは、いずれかの転生で、必ず、様々な所に生きてきているのですよ。決して他を羨ましがることはありません。ある時は王者の暮らしをなし、ある時は、まるで物乞いの人生を生きてきたこともありましょう。どのような生にありましても、必ずその人にとりましては、とても大切な生であったと言うことなのです。

◎ あのギゼのピラミッドを建設するにあたりましては、まことにあなた方の予想だにつかぬ、様々な技法が駆使されました事は言うまでもありません。~ あなた方に、過去世の記憶を想い起すチャネルが開かれますならば、その頃に行われ展開されました、壮大なドラマが脳裏に甦るのでしょうが・・・ 


◎  人々の霊魂は、もっと明るく、軽く、自由な波動の世界に移行したいと願わずにはいられなくなるのです。そのことが人が人として何回もこの地上に生まれ出る所以であると申せましょう。

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