★★山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。
◎ 私達(天界の人達)はいま、このように個々の霊として存在し、あなたに語りかけています。あなた方のように、肉体に閉じ込められている存在と異なり、時空に縛られもせず、こうしてあなたに現れると同時に、他の方のところにも現れることができるという、広がりそのものの存在としてあるのです。
◎ どのような人であれ、肉体を離れますと、その霊魂の持つ波動の世界へ間違いなく引き寄せられてまいります。一旦その世界へ入り込んでしまいますと、その世界ですっかり安定してしまい、なかなかそこから上昇していくことが出来ません。いつまで経っても、その世界の中で、堂々巡りをしていることになります。その波動を変える最大のチャンスは、《この肉体世界に生まれ出た時のみ》 と言って良いでしょう。
◎ 霊魂がその肉体を離れますと、今まで閉じ込められていた霊魂は自由になります。肉体として生きた間に、自分のものとして作り上げてまいりました波動のまま自由になります。ですから、類は類を呼ぶの例えのように、自分と同じ波動世界へ、迷うことなく引き寄せられ、その世界に於いて、次の出生のチャンスを待つという事になります。
◎ 霊魂は、 いつかは神本来の持つ(肉の目には決して捉えることの出来ない)高性能のエネルギーの世界へと、回帰してまいります。そのためにも人々は、天使の軽やかさを持った者であれ、何であれ幾度となく肉体となって、人の世界で生きるのです。一人の魂が軽くなるだけではダメなのです。私達は全体として一つなのですから、全体として軽くなっていく必要があるのです。そのためにこそ、先に軽くなったものが、後になってしまった者へのお手伝いをしていくのです。
◎ 霊魂は、肉体を離れてしまいますと、先日も申し上げましたように、その魂の持つ波動の世界に入り込み、そこで安定し ~何の刺激もなく、大きな成長は望めなくなってしまいます。そのような世界で待機している魂のグループ達は、なんとかして肉体を持って(地上に)生れ出たいと待っているのです。そのような魂から見ますと、いま肉体を持っているあなた方が、どんなに羨ましいか分からないのです。
◎ 人の魂の普遍性、この世の生だけが全てではないこと、人々の霊魂は、この宇宙の歴史と共に、いつも歩み続けてきたこと、これから先も、神の全きエネルギーへ回帰する日まで、ずっと、共に歩み続けていかなければならないこと、これらのことを、しっかりと知る必要があるのです。これから先、どのような出来事がありましょうとも、それは全て人々の想念によって引き起こされ、起きる事であること、また、それらのことに直に巻き込まれていく人々は、それなりの理由があっての事と知って下さると良いのです。
◎ 《 守護霊 》と言いますのは、その人その人個々に、まるで一人の親として定められたかのように、つまり親が子供を保護し、やさしく育て上げていくような役割を致します。それこそ、朝から晩まで、寝ても覚めても、泣いても笑っても、箸の上げ下ろしから何から何まで承知しているような役割(存在)です。それに対して《指導霊》といいますのは、いわば学校の先生のような役割と言ったら良いでしょうか。現世的に申しますと、お寺のお坊さんとか、教会の神父様、牧師様といった、その人の生きるにあたっての『 精神面を司る者』として存在すると思って下さい。
◎ どのような指導者に巡りあうかは、この世的に言えば、まるで時の運のように見えますが、天の国では決してそうではありません。どのような状況にありましても、すべては、個々の人間、個々の霊の持つ必要性に応じて出来上がっている《組み合わせ》と知って下さい。
◎ 霊体の時には決して触れ合うことの出来なかった者同士が、この地上社会ではどのようにも接触できることになるのです。ですから、真に魂の成長を願うものにとりましては、この上ない学舎であり、飛躍のチャンスがいくらでもあります。
◎ 一人の人は、地上で一つのドラマを生きて、またもとの世界へと戻ってまいります。良く生きた人もいれば、思いがけないアクシデントの中を生き続けた者もいます。たとえ夫婦であろうとも、その生きた姿によって、帰るべき霊の世界は、大きく異なってしまうことは、良くあることです。そして、帰ってきた霊は、次の出番を待っている霊の仲間にバトンを渡し、送り出してあげることになります。その時あなたは、送り出した霊の守護霊となって、お世話することになります。ですから、いつでもあなた方を心配し、見守って下さる霊なる方々(存在)が沢山いらっしゃる事を、忘れないでいただきたいのです。
◎ 死後の世界は、人によって在るとする者しない者とに分かれてまいります。キリスト教の世界では、『有る』、つまり永遠の生命という言い方はしますが、輪廻転生としては捉えていないのです。
◎ ”死”という現実的な出来事 ~ しっかりと年老いて死を迎える人、不慮の死を遂げる人、まれには、自ら命を絶ってしまう方々もあります。いずれも同じ”死”という姿をとりは致しますが、その結果生じることはとても大変な事なのです。(*地上的ではなく、天上的に大変) 自然に老い果てて迎える死は、いわば神のふところに何の迷いもなく、スッーと運ばれてまいりますが、例えば病による死などは、その病んだ本人の(死に対する)自覚次第で大いに差が生じます。~ 死の捉え方は、まことに様々な世界であります。誰が一体”死”に対して、あの恐れ、恐怖心というものを植え付けたのでしょう。
◎ 死後の世界をはっきり自覚し、そのことを前提として生きてきた人にとりましては、死という一つの儀式を通過致します事はさして困難なことではありません。むしろある意味では、また新しい希望の時であり、心からの充足感を味わう時でもあるのです。
◎ 今世の生への執着しか持ちえなかった人は、どのような形で死んだにせよ、なかなか自分の死と言いますものを認めようと致しません。それ故に、この世的なあらゆる事柄にしがみついて、離れようとしないのです。(*これが幽霊現象か?)従いまして、死後なかなか次のステップへと踏み出せないのですが、それもまた時間の問題ではあるのです。仏教的な習慣の中では、死後49日間を霊が去りやらぬ日と定め、遺骨を埋葬しないようですが、それもまた一理ある事なのです。よくよく死を迎えた人に、その事をわきまえてもらう必要があるのです。
◎ 死を迎えた霊魂は、全てその霊の持つ波動に応じて分かれていく ~ その分れました波動の世界は、その霊魂が生前絶えず心の中に持っていました、一番大きな関心事と同じ世界であると言う事でなのす。
◎ 私達にとりましては、生か死かの二つしかないのです ~ この二つの現象は、丁度、紙の裏表のようなもの ~ あなた方は、紙の表側だけを有することが出来ませんように、死とは絶えず隣り合わせの関係なのです。アッという間に、生は死へと転換致します。しかし、死から生への転換は、(死も形を変えた生そのものですが)そう即座にはまいりません。そのためには、それなりの時を要します。
◎ 人が亡くなった時、全て仏の手の上に運ばれて・・・という事は全くその通りですが、彼女の考えていましたように、いわば、蓮のうてなの世界だけでないことは、まぎれもない事実そのものなのです。しかし、どのような世界でありましょうとも、それが全て仏の世界であり、神の世界そのものなのです。他に世界は無いのですから。ただ、それが実に様々な様相を呈しているということです。
◎ 彼女は、人が亡くなれば、全て仏の世界に入り、何の差別も無くなり、平等になるといった考え方に立っているのですが、何を差別と考え、平等と考えるか、という事はあります。しかし、それ以前に、あなた方は、人の肉体と魂、霊魂との関係などを知る必要があると思います。また、その霊魂と言いますものが、本当は何であるのか、その性質、性格なども合わせて知る必要がありましょう。
◎ 人の魂、霊魂と言いますものは、さまざまな波調(波長)を持った、人の目には決して見る事の出来ない存在であると、お話ししてあります。そのことは、まぎれもない事実なのです。その魂の波調の違いを、単純にランクの違いと見てしまうと問題が生じます。良い悪い、高い低いのランクではなく、その人が人としてどう生きてきたかの個性の現れと見るのが良いのです。
◎ 各自生きた姿勢によって、その霊魂の持つ波動は様々に変化してまいります。その変化の最中(さなか)の、どこで肉体を離れるかによって、死後の世界は決まっていくといえるのです。同じ所に行けないから不平等なのではなく、その人その人に一番近く、ふさわしい世界に行けることが大事な事なのです。
◎ 死後、自分という存在は、結局は人としての肉体を纏っているかいないかだけの違いであって、自分といいます存在は、厳然として消えはしない! という事に気付くのです。また、人として肉体を通した五感の中で見聞きしていた世界が、非常に狭く、窮屈に作られた世界であることにも気付いてまいります。