無量大数 (山田征さんのチャネリング)

山田征さんのチャネル(1988年から数年)を抜粋編集して紹介

2015年09月

7--133 レオーネと磁場

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑦-133   
(★征さんのト書き)  
レオーネについて

レオーネは、フランシスコがまだ他の弟子達と動きを始める前から、いつの間にか彼の前に姿を現し、終生、まるで物に寄り添う影のように、フランシスコの傍らに在り続けた存在です。

フランシスコ亡き後は、他の少ない弟子達と共に、反フランシスコ派であったエリア達によって迫害され、死亡したと言われています。また、フランシスコについての記録のほとんどは、レオーネの手によって残されたと言われています。

また、この日の記述にあります、ラ・ペルナ山のことですが、この山は、アッシジから車で約二時間(ハイウェイ)ほど離れたところにあります。晩年のフランシスコが瞑想の為にこもり続けた山です。(四十日四十夜とも言われますが)

フランシスコがその時過ごしたといわれる岩穴に行ってみましたが、なんと言うか、身の毛がよだつような深く、高く垂直に切り立った岸壁の上にありました。

現在そこには、寺院が建っていていますので、その凄さのほどは、ほとんど解らなくなってしまっています。

その切り立った岩の上で、フランシスコは、影のように付き添うレオーネさえも遠ざけて、数十日もの間、連日連夜祈り続け、ある日とうとう、十字架上のキリストの受けた傷(両手両足首、そして脇腹)と全く同じ、いわゆる聖痕なるものを、イエスを六枚の羽で抱いて現れたケルビムによって与えられたと言われます。

それから死を迎えるまでの約二年間、フランシスコのその傷からは、絶えず血が流れ続け、痛みも伴っていた、と言うことなのですが、その彼の体は、いわば強烈極まりない電極と言いますか、磁場そのものとなってしまい、そのことにより、また多くの奇蹟も成し得た(起こった)という事です。

私達は、六年前のアッシジへの旅の時、ラ・ペルナ山に行った後、
*フランシスコ達が、初期の頃によく瞑想にこもったと言われる、カルチェリー山にも行ってみました。

そこはアッシジの街のすぐ上で、とても近い場所ではありましたが、やはりなかなか険しい山の中でした。そこの瞑想の場所も、建物ですっかり覆われていました。

さて、私達は、澤田先生に教えてもらった、レオーネの瞑想の場だったと言われる、吹き抜けの岩穴を見に行きましたが、その時は他の旅仲間は先に行ってしまって、数人の若い人達だけが残っていました。

ところがその時、私の体に、とても強力な回転する力が働いてきました。けっこう石だらけの山道で、くるりくるりと体が回ってしまいます。

それを見て、そばに居た二人が 「 どうしたんですか?」 と、何だか面白そう、と言った感じで近づいてきました。するとその二人も回転する磁場の中に入り込んでしまい、咄嗟に支えた私と共に、三人して、くるりくるりと何回も回り続けました。

*そうしながら、そこに居た私達はみんな、急な折れ曲がった坂道の下にある、レオーネの瞑想場所に、自然に誘(いざな)われて行きました。

後に私のノートでは、まるで影のような存在だったレオーネこそは、彼フランシスコの真の守護者であり、隠れた師でもあり、またケルビムによって聖痕を受けるに当たり、その場の磁場(エネルギー)を共に高める役割をした者である、と語られているのです。

私は自分の体に働く力の体験から、そのことの意味がとても良く解る気がしています。

人は、自分一人だけでなく、他への力の補助も出来るし、分散も出来るらしいのです。

*ごく身近な例で説明しますと、強烈な磁石にくっついていた釘を、磁石から離したとき、その釘はしばらくの間、磁石としての働きをすると言う現象と同じことです。

私から離れた二人に残った回転力は、丁度そのようなものだったのだと思います。

7--130 磁場としての身体

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑦-130    
3月25日(1989)のチャネル
(征さん) 私は、ノートの話を、もう少し整理しておきたいと考えているのです。たとえば、私の体が、私の感覚で言えば、とても軽くなってしまっていて、いわば無いといった感じがするとか、さまざまな磁場になってしまっていると感じてしまう事などについてなのですが・・・・

☆チャネル☆

はい、今あなたの体の中に起きています変化といいますのは、これから先、実に多くの人々が辿ってまいります、まぎれもないモデルケースであると言えるのです。

その為に、さまざまな試みを行ってまいりました。あなたは余りそのことを気にすることはありません。全てのことは成るようになってまいります。

そうなのです。いずれその時が到来しますならば、誰であれ、自分自身の意識の中で変化を感じ取り、そのことを知っていくことと思います。
これから先の地球の磁場そのものが、そのように変化していくとも言えるのです。
 
それよりも、今日あなたは、あのレオーネの語った言葉をよく噛みしめてみると良いのです。

いわゆる一つの史実として残されていますところの数々の書物と言いますのは、あのウンブリアの地に生を受けた、この私自身の生きた姿に対するものが多く、レオーネは、そのような視点のもとに、私をよく観察し、記録してまいりました。

そのような記録者としての彼の立場や、その人となり、また、その時担っておりました真の意味を知るものは、まことに少ないと言えましょう。

しかし、私フランシスが、この大地に生い茂れる、つまり人々の目に触れる樹木であるとしますならば、その樹木を支える大地こそは、彼レオーネでありました。

その彼は、もちろん私だけではなく、他なる者の愚痴や悩み、そして大いなる喜びであるとか苦しみの全てを聞き、その心が安らかになるようにと計ったものでありました。

そうです、あの頃の私は、やはり一つの電磁場でありましたから、私に触れる人々は、いずれに致しましても、何らかの影響を受けずにはいられませんでした。

また、私のその力は、今度の旅で、あなたが是非訪れたいと願っていますところの、あの聖なる山、ラ・ベルナ山に於ける、またとない奇蹟、いわゆる ”聖痕” を受けたあの時に極まったものであるとも言えるのです。

あの時、私の体は、ただ単なる肉体というものではなかったのです。
それでなくば、なんであのような高周波のエネルギーを受け止めることが出来たでしょうか。

あの時、私の体に起きていましたことは、人々の、そうです、多くの弟子達の理解さえ超えたものでありました。

そうです。前にも申しましたように、彼いえすの体もまたそうであったと言えるのです。
非常にボルトの上がった、いわば電極でありました。
ですから、実に多くの事柄が可能となったと言えるのです。

そうです。いま私達は、そのようなハイレベルな力(エネルギー)を使っていますので、いまのあなたは、この強い力を受けることに対して、そろそろ限界といったものに近づいているのです。
少し休むのが良いのです。

                    あいしていますよ ふらんしす

7--127 人が他の星へ移るとき

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑦-127     
3月24日(1989)のチャネル
 
(征さん) 昨日はちょっとした集まりがありまして、その時に出た話ですが、 もし私達が、もうこの地球をあとにして、みんな新しい星へ行くのだとしたら、どうしてまた次々と新しい生命が誕生しているのだろうか と言うことなのです。

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☆チャネル☆

そうです。あなた方は、そのことを余り単純に、物理的な現象として捉えようとはしていないでしょうか。

人は肉体として固体のまま他の星へ移動するのわけではありません。

人は誰であれ、自分の本来の姿、霊なる姿、意識体にたち返った時こそ、初めて、まことに自由になり、他なる天体への移行も自在に出来ると言うものです。

もちろん、何時でありましょうとも、あなた方の意識と言いますものは、他の天体への移行は可能であるはずなのです。
あなた方の意識は、ある一定の期間この地球という星(天体)に所属し、人としての生長過程を経ることになった 《 魂の集団である 》 と考えて下さると良いのです。

それがつまりは、地球人と言われる所以(ゆえん)でありましょう。

まあ、今はあまり話さずにおきましょう。あなた方は、解らない事は、解らないままに温めておいて下さると良いのです。

しかし、なぜまた、このようにして次々と新しい生命が生まれてくるのか、と言うことにつきましては言及しておかなければなりません。

そのことは、いつも言っていますように、人をただ肉体的な姿として見ていくのではなく、その肉体の中に宿りました霊なる人、霊なる存在として見ていく必要があるということです。

どのように幼い生命でありましても、その体内に宿りますのは、立派な一個の霊魂、意識体であるといいます事を、決して忘れてはいけません。

そして、地上での生命がいつ中断されたと致しましても、それらの魂は全てその理由を承知していると言うことです。

また、あなた方は、たとえ、何時いかなる時であれ、常に新しい生命を生み育む  といった想いと行為を止めてはいけないのです。

絶えず新しい生命が人々の中に在る、そのことが、あなた方全ての者にとりましては、この上ない夢と希望、あるいはドラマとなっていくはずではないでしょうか。

また、新しい生命といいますものは、どのような時であれ、絶えず準備され繋がれていくものであり、それが ”種” であることの条件でありましょう。

あの愛らしい幼子(おさなご)の一人も居ない世界を考えてごらんなさい。なんと淋しく、枯れ果てた世界になってしまうことでしょうか。

私達がこのノートの上に言い表しました事柄の、” 表現された言葉 ” だけを見たり捉えたりしないで下さい。

それよりもあなた方は、この地上的な人として、なすべき事がまだまだ沢山あるのではないでしょうか。そのことこそ、じっくり こなして下さいますように・・・・そのことこそ、よくお願いしたいと思います。

そうですね。もっと大らかに、と申し添えておきましょう。

                  あいしていますよ ふらんしす

7--117 男と女 *

⑦-117   
* 征さんのト書き * 
男と女、そして夫婦のこと


これまで多くの宗教の教え中で、そのように構えてでなくても、ごく普通、一般的は社会常識の中で・・・

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7--113 人間と動物の性行為の違い

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⑦-113   
3月20日(1989)のチャネル

☆チャネル☆

さて、私達、霊なる者が、霊なる存在として在った時と言いますのは、物質的な姿形は無く、いわゆる肉体的な固体ではありませんでした。(*つまエネルギーの塊ってことでしょう

そのこと故に、私たちはまことに自然で、自由にこの大蒼に存在し得たものであったことは、前にも述べてあります。

また、なぜ肉体を有するようになってしまったか、につきましても同じことです。

私達つまり霊なる存在も宿ることになってまいりました 《 人としての肉体 》 といいますものは、もはや神なる息吹の中にて、単なるイメージや思考のもとに、派生しうるものではなく、長いときの流れの進化の果てに、変化していったものであったと言うことも、前に述べてありましょう。

いまある肉体と言いますのは、神の意志、思考のもとにイメージされ創られました男と女、いわゆる陰と陽なる、ふたつの性(さが)の交わりによるものであることは、ことさら改めて言うまでもないことでありましょう。

人も、他の生き物達も、植物群も、まことに、ほとんどすべての新しい生命と言いますものは、そのような性の交わり、力の働きといった仕組みの中で誕生し、時代を繋ぎ、種を繋いでもまいりました。

新しい生命の誕生こそは、種の存続の為、決して欠かすことの出来ないプロセスであり、神聖なる出来事でもありましょう。

それ故に、古来、さまざまな国々の中に残る神、あるいは仏達の姿の中には、性の交わりこそが最高の神技として扱われているものが、少なくないのです。

さまざまなる宗教画や、仏像の中には、そのことが主体となって描かれているものが多くあり、またシンボルともなっておりましょう。

それらの中では、男神と女神がいかにも逞しく、おおらかに互いを抱き、睦み合う姿が白日のもと、人々の前に置かれている現実があるということです。

にもかかわらず、私達にまつわります宗教、あるいは教えの中にありましては、それら男女の交わりのことは、かたく秘められたものとなってしまっているのです。

それでも、そのような行為なしでは、種の存続、人としての歴史が途絶えてしまいます。故に、そのことの為にのみ、男女の交わりは許される、とされてまいりました。

しかし、そのように閉ざされてしまいますと、逆に人はそれらのことに興味をそそられ、罪として罰せられることを承知の上で、覗き見せずにはいられませんでしょう。

先日来、私達が度々あなたに申し上げていました事の一つは、まことに、このことにあったと言うことなのです。

他の動物、生物達にとって、その行為は正に種の存続にかかる、最も大切な出来事であります。
故に、それら多くの固体(生物)が持つ機能のほとんどは全ては、その一点に絞られ、仕組まれていると言っても過言ではありません。
昆虫の世界、そして魚達もみなそうです。

中には、新しい生命の誕生と同時に、この世的な生命を失くしていく生き物達のなんと多くあることでしょうか。よく考えてみて下さると良いのです。

しかし、人だけはそうではありません。
人はただ、単なる種の存続の為だけに、男女の交わりと言った行為を行うものではないことは、もはやあなた方には自明のことでありましょう。

人は、それぞれに互いの愛を確かめるため、あるいは高める為、あるいは肉体的な感情を満足させる為など、他の生き物達にはない感情のもとに、そのような行為に及ぶといいますか、及ばざるを得ない何かを、その精神的な要素の中に持っているのです。

古今東西、いわゆる悟りを得ることを生きる目的とした、多くの行者は、いかにしてそのような感情から離脱し得るか、肉欲を思わず、清浄なる神的波動の中で、どのように生を全うし得るか、いろいろ苦労したはずではないでしょうか。

なかなかに人は、そうたやすく聖人君子とはなり得ないものです。
ですから、あのゴーダマ仏陀の悟りの過程にも、そのような苦労話は、しっかりと語られております。

つまり、それらの欲望から如何にして脱却し得るかが、悟りへの大きな鍵とも言えたのではないでしょうか。

その為に、彼フランシス等は、いかばかりの精神的葛藤を経たことでありましょう。はたから見ますならば、異常なほど異性を遠ざけてまいりました。

美しい乙女を見て心をときめかし、好もしい殿方やご婦人を見て、心密かに想いを寄せることなど、本当は、とても自然で素晴らしい感情の動きとも言えるのですが、今までは、それらを全て、淫らな感情として、かたく閉ざしてしまったと言えるのです。

もちろん人の中には、性的なことがらに対し、生来淡白であり、無関心な者も多くありましょう。
それよりも、もっとほかの事に、より多くの関心があり、素晴らしい世界を知っているとも言えますし、すでに卒業してしまったと言えるのかもしれません。

しかし本当に神は、人をそのように、異性に対する愛も知らず、感情の高まりも知らずにすむようにと創られたのでしょうか。もちろんそうでないと私は考えているのです。

これは、私個人の発言であるとは考えないで頂きたいのです。

だからと言って私達は、人はいかにも性的であれ等とは申し上げるつもりはありません。

そうなのです。たとえそれが、人が人を恋焦がれるような愛であれ、神を切に知りたいと思うような、聖なる形の愛であれ、心から熱愛してやまない愛の形でありますならば、それらはすべて、素晴らしい、愛の力となって、あなた方すべてを包み込んでいくはずではないでしょうか。

人はどのような形でありましょうとも、心からの愛に満たされている時こそ、本当に素直で、幸せでいられることと思います。

あなたには、いつでもあの るしえる が、何もかくさず、てらうこともなく、手放しでおおらかに愛の言葉を投げかけているではありませんか。

たまに人は、そのように自由におおらかに人を愛し、愛されてみると良いのかもしれませんね。

あなた方人々の与えられた愛の心、愛の営みは、決して種の存続の為だけではなく、もっと多くの大切な要素を含んでいる、ということではないでしょうか。

                          私はまりあ

7--110 自分を喜ばすこと

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⑦-110   
3月19日夕方のチャネル
 
(征さん) 今日は、文字がこんなにもちゃんと書けるので、とても嬉しいのです。

先ほど私はHさんに頂いた手紙への返事を書きました。ある一人の知人が、『 自分がこの世への救い主、人類全体の救い主として生まれたといって騒いでいるけど、それはどうなの?』 と言ってきたからです。

☆チャネル☆

そうです。先程あなたが書いたお返事は、あれはあれで良いのです。

もちろん彼女自身がすでに自分でその答えを出してきていますように、彼には、『 そのような大袈裟な気負いはお捨てなさい 』 といって差し上げるのが、本当は親切と言うものです。

あなた方個人がどれほどに頑張ってみたところで、人としての限界を越える事は出来ないのです。
その事をこそ、まず自覚してまいりますと、あとのことは自ずから答えが見えてまいりましょう。

しかし、今はまだそのようなことで、自分を励ましもし、高めようとしているのでありますならば、それもまた、彼にとっての生き甲斐と言うものなのです。

はたでとやかく言うことは何もありません。

いずれ彼自身で、そのことの限界と言いますものを知ることと思います。

これから先は、尚更にそうした気負いを持つ人々が、沢山名乗りをあげ、表れ出でてまいりましょう。ですから私達は、今日あなたが、いわゆる一般的な論理として、彼女に書き記しましたような話が、実はとても大切なことではないかと思っているのです。

つまり、人は誰であれ、自分以外の他人(ひと)を本当の意味で救い出す、つまり、救いとることは出来ないという基本原則を、まず知る必要がある、と言うそのことです。

でも、人はみな、自分が本当にやってみたいことを、一応やってみれば良いのです。

人によっては、そのやってみたい事が、たまたまその相手であるとか、あるいは不特定多数の誰かであるとかが、本当に喜んで下さったり、救われた、助けられたと感じてもらえる事であるかもしれません。

そうであれば、どんなに素敵で良いことでしょうか。

しかし、その全く逆のことも、世の中には沢山あるに違いありません。
つまり、余計なおせっかい、ということです。まず、自分の頭の上のハエを追ってから、といった言い方もありましょうに・・・・。

しかし、あまり難しく考えなくても良いのです。あなた方はまず自分自身を喜ばすことです。

もしほかの人のことを考えるとしますならば、人は一人一人、その個性、魂の中に持っている可能性があると言うことを考慮しなければいけません。

決して自分の物差しにはめ込もうとはしない事です。
まして、いまあなた方は、それらの常識と言われてきた、さまざまなる意識の一大変換をはかろうとしているときなのです。
これまでの、同じ物差しと言いますか、常識で計ろうとしますと、まるで理に合わないと思われるような事が、次々と起きてまいります。

そうですね、いつの場合でも、私達の言い方は、人は各々に違ってまいります。

あるときは、これまでの一般常識や、従来の神の教え、愛の教えのままに、『 どうぞ他人の為に尽くしてください。人を愛さなければ・・・・・ 』 と言ってはばかりません。そしてある時は、『 もはや、そのような時ではない 』 とも申しましょう。

そのどちらも、あなた方の心の成長、あるいは魂の成長の為には必要なことばかりでありますし、その人その人に応じて、言い分けられていくということです。

重ねて申しますが、時として、このように全く相反するような事柄を、私達自身が言ってしまう事もありますが、その時にはその時なりの判断と言いますものが働いていると言うことですから、そのことをどうぞ良く知ってくださいますように・・・。

久し振りに今日は、あなたの持つペンの滑りが良いようです。

この間、ずいぶん強力に、あなたの力(エネルギー)を上げる為、かなりハードな特訓をしてまいりましたが、そのことによく耐えて下さいました。

如何ですか、今この感覚は? 非常にシャープと言いますか、鮮明な感じなのではないでしょうか。

いま私たちは、実在そのものとなっています。

すべては、時間的なプログラムの上でなされている事柄ばかりです。

                    あいしていますよ ふらんしす

7--107 アッシジへ

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⑦-107   
3月14日(1989)のチャネル
 
(征さん) こんばんは。夜になりました。ローマやアッシジでの宿泊先が決まりました。

ベネティクト派の修道院や、アッシジのサンタマリア・デリアンジェリの宿舎に泊まるそうです。とても楽しみにしています。

☆チャネル☆

そうです。まあみていると良いのです。面白いことは、これから次々と起きてまいります。
そのようにして、私達はあなた方の今回の旅が、その心に強く焼きつく、印象的なものになるようにしてまいりたいと思っているのです。

                      あいしています ふらんしす

(征さんの注)

サンタマリア・デリアンジェリとは、晩年のフランシスコ達が過ごし、そこて亡くなったポルチンクラという小さな御堂を、そのまますっぽり包み込んでしまっている大伽藍のことです。その大袈裟な姿は、まるで中に美しい真珠を抱え込んでいる、アコヤ貝の姿のように見えます。

 
⑧-108   
3月19日のチャネル

(征さん) おはようございます。昨夜遅く、我が家に新しい生命が生まれました。男の子です。

☆チャネル☆

はい、とてもめでたい事でございますね。ほんとうにおめでとうございます。

そのようにして、いつでも私達の生命の歴史は、幼い新しい生命誕生によって引き継がれてまいります。
そのこは、とりもなおさず、あなた方人々の生きるドラマの、新しい幕開けであるとも言えるのです。

はや、この地上での歴史は、そう長くないかもしれませんが、それでもこのようにして、次々と、新しい魂の誕生は繰り返されてまいります。

とにかく、人と言いますものは、そのようなことの繰り返しの中で、歴史、つまり時代を継ぎ、とても沢山のことを学び続けてきたのですから・・・。

良いですね、これからもまた私達は、このようにして、新しく生まれ出る新しい生命と共に、いろいろのことを沢山人々の前に示していくことにいたしましょう。

このようにして、またあなたのもとに、あなたの孫に繋がる魂が降り立ちました。
あなたもこれで心置きなくアッシジに旅立つことが出来ますでしょう。


そうです。あのアッシジの街全体と致しましては、これまでの数百年の時の流れと共に、人々の心もさまざまに変化し、今という時代の傾向に流されてきていると言えなくもないのですけれど、しかし、いまのあなたのお国ほどではないのです。

やはり、あの街の方々にとりましては、その偉大なる聖人を産み出した土地である、ということの誇りと言いますものが、少なからずその心に息づいていると言えましょう。

あの街に生きる人は誰であれ、そこで生きることを、心のどこかでとても誇りとしているのです。
たとえば、今回訪れますあなた方の目に、どのような姿でそれらの人々の姿が映ったといたしましても、あなた方は、その表面的なことだけに心を取られてはいけません。

あの地がいかにして、あの時、あのように、まるで燃え立つようなキリストの愛と清貧に満ち満ちた場になり得たか、と言いますことをよく考えてもみて下さい。

私達は、今回のこの旅のために、さまざまなることを用意して待っていたいと思います。

あのゆかり深き修道院に宿泊すること等も、その一つと考えて下さると良いのです。
もちろんそればかりではありません。まだまだ様々なることがございます。
まあ、そのうちに、そのことが何であるかを、あなた自身で知ることでありましょう。
恐らくは、あなた自身の心を満たすだけでなく、他の多くの人達のためにも、、とても良い結果となるに違いないのです。

さあ、旅立つまでに時はあまりありません。楽しみにしているのです。

                  あいしています ふらんしす

7--104 ルシエルの担ったもの

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⑦-104   
3月13日(1989)のチャネル
 
(征さん) 私は今、このノートを本にする為の整理にかかっているのです。あのアダムとエバのお話を最後の方まで読んでまいりました。なかなか面白くて、とても含蓄があるといいますか・・・ええ、これはとてもいいと思いました。

☆チャネル☆

さあ、そのことについて、少し説明を付け加えてまいりたいと思います。

あなたはいましばらく、その終りの部分を、繰り返し読んでみると良いのです。
そこには何が書いてありましたでしょうか。

そうです。この物語の中での彼るしえるの担いました役割の終りとなります時には、何がなされると言われていたのでしょうか。

『 そはまことにかの一人の女、エバなる裔(すえ)の裔なる一人の女にありて行いたり 』  と書き記してきたのでした。

そうです。そのことは今、このようにして日々なされ続けてきているのです。

このようにして、私達による言葉を書きしるし、人々の前に差し出してまいります事こそが、彼の上に重くのしかかっていました。

あの不滅とも思えた、悪の概念を取り除く為の、基いと言いますものを築きつつあるということなのです。

まだまだ人々にとりましては、そう簡単には 『 善も悪も全てはみな同じである 』 などとは言えませんし、とても受け入れがたい事ではありましょう。

しかし、それらの概念と言いますものは、いずれ、きれいさっぱりと取り除かれる時がまいります。
そのためにこそ、いま人々はこのようにして、いろいろと悩んだり喜んだりしながら生きているのですから・・・・・。

このアダムとエバのお話、エデンの園の物語が、このような形に置き換えられて世に出てまいりますと、恐らくは、まことにさまざまなる反応となって返ってくることでありましょう。

しかし、それは仕方のないことです。
それが新しい時代への胎動であり、産みの苦しみとでも言えるのでしょうから。

                               あいしています  いえす

征さんの(注)

 ” るしえる ” という言葉については、このようにチャネルのごく初期の段階で表現された、擬人的な扱いの場合と、この宇宙そのものを創り上げる、と言いますか、構成しています力、エネルギーとして表現される場合があります。本来的には後者である、とはっきり言うことが出来ます。

るしえる = 陰(イン)の力つまりは陽的エネルギーによってイメージされ、発想されましたことを、形にしていく、現象化、物質化とでも言いましょうか、その力そのものであるということです。

ですから、どうぞこの擬人的な扱いの ”るしえる” に捉われないで下さいますようにお願い致します。これは物事を分かりやすくする為の、ひとつの表現方法であると言う事です。

この物語全体がそうである、とも言えるのですが・・・・。

7--102 あるがまま完全

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⑦-102    
3月5日(1989)のチャネル
 
(征さん) 今日もまた雨となりました。この頃は、ノートの進み具合もだいぶゆっくりペースです。

☆チャネル☆

そうです。何が良く、何が悪いと言いますことは何もないのです。
全てのことは、このようにして、あるがままの姿のままに完全であると言うことなのです。
雨もよし、風もよし、晴たることも、これもまた良しとみてまいりましょう。

そうです。このノートの上では確かにゆっくりですけれど、あなたの生活の上では、決してそのようにはなっていないのです。

特にこの間のあなたの心の中には、さまざまなる事柄が、いろいろに逆巻いていたように見受けていましたよ。今日あたりは、だいぶ落ち着いたと言えるのでしょうか。

ところで、あなたはアッシジ行きを決めたようですが、私達はそこでもまた、楽しみにしてあなた方を待つことに致します。

この旅は、あなたと致しましても、あのエジプトよりはもっと近しい過去世でありましたから、いろいろとよく思い出すことがあることと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑧-103   
3月7日(1989)のチャネル

(征さん) 昨日は、とても気持ちが落ちつかなくて、書けなかったのです。

夕方、Yさんの所に行って見ました。そうしたら、あの足の悪いお子さんが、おこたのところで、私に正座をして見せてくれたのです。「 おばちゃん、ほら、私座れる、すわれる 」 と言うのです。でも最初私には、そのことの意味がよく分かりませんでしたが、彼女は今まで、正座というものをしたことがないというか、出来なかったそうなのです。ですから、私達にとって何でもない ”正座” という行為が、それこそ、まるで奇蹟のように思えるらしいのです。

このことが、本当に私の行為によるものであるのかどうか、分かりません。それでも、そのようになれた事は、とても良かったと心から思っています。

ありがとうございました。

☆チャネル☆

はい、そのことは本当に、どんなにか喜ばしいことでしょうか。

そうです。あなたの言うように、そのことが何によるものであるかは、別に言う必要はないでしょう。

彼女達の心からの願いが、そのようになった だけのことでありましょう。
本当にそれは良かったと思いますよ。

そうです。ほんとうに、一つ一つの積み重ねであると申せましょう。
あなたもどうぞ誠意を込めて。出来るだけのことをして差し上げて下さいますようにと、私達も思っているのです。

あまり大袈裟でない事なら、充分に出来るのです。何も恐れることはありません。

                     あいしています  いえす

7--95 フランシスコ極貧の真実

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⑦-95     
★征さんのト書き★

14冊目のノートをめくっていきますと、すぐアッシジ行きの話が出てきます。

~ 日付で言えば、4月9日に書いた、フランシスコのとても長い話しのくだりは、ちょっと読みごたえがあるかもしれません。
4月9日という日は、ちょうど一年前に初めてノートをとり始めた日でもありました。丸一年の区切りの日であったと言う訳です。

その頃の私は、とても大きな力、エネルギーの変化の真っ只中にいました。ノートを開いて書き始めますと、あっという間に、ふわっと大きな力の渦の中に巻き込まれて行き、自分の体が無くなってしまったような、とても軽い浮遊感ですとか、それとは全く反対の凝縮感(もし、ブラックホールに入っていくとしたら、こんな感じかな?と思うような)あるいは、信じがたい程高いボルトの中に入ってしまい、何をどうして良いのか分からなくなってしまう、といったことが良くありました。

力の中に入ると言うよりは、まるで泉のように強力に湧き出すと言うか、噴き出してくる、と言った方が当っているように思えました。

その力の中で、このように文字として書き続けるということは、とても大変な作業となり、しばしば途中で断念しなければならない、と言うことは良くありました。

その頃のノートには、途中で書くことを放棄した断片的な文章に沢山ぶつかります。
~ あの頃は、ほんとうに大変だったと、今さらながら思うのです。
~ 
そして今現在は、それが無くなったと言うことではなく、慣れてしまい、うまくコントロール出来るようになったと言うことです。

不可視の世界との関わりと言いますのは、こうしたエネルギーといったものを、生身の体で、どれだけキャッチ、許容し得るか、といった事であるようにも思えます。

そうしたエネルギーを、普通の人間の聴覚や視覚で捉えることが出来ますように、少し低く弱い周波のものに変換して、一般的な人に一つのビジョンとして視える、聴こえるといった状態にすることも出来るわけです。

本来の力(エネルギー)は、とにかく形、あるいは音といったものになる以前のエネルギー体そのものですから、視えたり聴こえたりする質のものではないと言うことです。
つまり、物質現象的なものは何もない、 ” 空 ” そのもの、といった状態のことを言うようです。

私がこんなことを解説するのもおかしな話ですが、これらのことは、自分の体験を通して言えることだと思います。
その意味では、不可視の世界とコンタクトしている人々には、その人なりの体験や、感じ方といったものがあると思います。

~ いまの世の中は、いろんな不道徳行為や、邪ま、まがまがしいことが満ち溢れていることで” 終末の時 ” になりつつあると言われているのかもしれません。

しかし、新しい時代(とき)、新しい世界とは、その終末的な苦しみの時、混乱した事態を乗り越え、潜(くぐ)ってやってくると言うのですから、全てのことは、その時その時の必要を満たす、計画的なものであるかもしれません。

~ 私は若いころから、フランシスコの名にはとても親しみがありました。少しの飾り気もなく、自分をことさら低くして生きたこの人物の生き方に対し、大いに共鳴出来るものがあるように思い続けてきました。

ところが、つい最近、それまでは考えもしなかった、フランシスコに対する考え、思いのようなものが生まれてしまいました。

フランシスコの伝記をいろいろと読んでいますと、彼は ”清貧” と言うことに対して異常な情熱を持って尽くす、というか、接していることが分かります。

私達は彼を一人の偉大な聖人として見るあまりに、そんな彼の暮し振りを、とても素晴らしい精神、生き方であると見過ぎているのではなかったのか・・・そんな気がしてしまったのです。

私は、いろんな国の、いろんな貧しい人達の生活、生き方の片鱗に触れる機会が多くあります。そうした人達の多くは、もともと貧しい世界に生まれ、もともと貧しい生活しかなく、それ以外の生活を知らない場合がほとんどです。

つまり、フランシスコが命がけで選び取った貧しい生き方そのものは、極貧の中で生きる彼らにとっては、それは美徳でもなんでもなく、ごく普通の日常であり、現実そのものであると言うことです。

そうだ、フランシスコは、生活の豊かさ、豪華な食べもの、衣服の温もり等々、いろんな意味で贅沢を知りすぎてしまっていたから、極端な苦しみを自分に課すことによって、初めて神の愛でる貧しい者になり得たのだ、と思いました。

その意味で、そんなに偉いことをしたわけではないのでは・・・そんな事を、ふと思ってしまいました。

つまり、前半生と後半生との落差が極端だと言うことです。
もともと住む家も、お金も、食物も着る物もなかった人が、そのまま貧しく生きたとしても、決して名を残すこと等ないわけですが、彼フランシスコの場合、豊かさの極みから、” 神 ” の名のもとに、身を落とし、低めたが故に、多くの人々の心を惹きつけ、名を残すことになったのだと思います。

これでもか、これでもかとやっていく彼の姿、やはり常人にはなかなか真似の出来るものではありませんが・・・・

そして、フランシスコは、そのように大きく変身した自分自身の姿を通し、あまりに豪華絢爛、贅沢三昧、驕り高ぶった当時の宗教界、聖職者たち、あるいはそれらに近い暮し振り、神の教えを忘れてしまって生きる世の人々に対し、痛烈なる批判、警鐘を鳴らし得たのだと思います。

もちろんそればかりではない彼自身の人間的な、あるいは霊的な、とでも言うのでしょうか、そうした資質のことも当然考えなければいけないと思いますが・・・。

彼が若いころ、贅沢三昧をし、遊びほうけ、世を騒がす暴走族であったが故に、その改心ぶりが、多くの人々の手本になり得たのだ、と遅まきながら私は気付いたのでした。

彼フランシスコはそのようにして、聖職者や、神の教えを忘れてしまった世の人々を救う為に生きたのであり、一方、マザーテレサは、それこそ文字通り、貧しい中でも更に貧しい人々の救いの為に生きている人であると知りました。そして、その二つのことは、多分同じことなのだと思います。

~ さてフランシスコの時代から約8世紀、もう21世紀のいまの世の中、この時代をみて、神さまは一体何と仰っているのでしょうか・・・・。

7--88 神と人の遊び

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ 

⑦-88     
3月3日(1989)のチャネル
 
☆チャネル☆

今日は、あなた方のお国では、雛の節句というものです。この暖かい気温のために、花々も随分早く開いてまいりました。これからはまた一段と春めき、良い季節となってまいりましょう。

そうです。あなたの中には、いま一つの質問と言いますか、他の者のこだわりについての思いがあることを私達は知っています。

それは、1月14日の記述にある 『 私の遊びである 』 に関する事柄であります。

そうです。ほとんど多くの人達にとりましては、この世に起きていますあらゆる災害、あらゆる不幸、あらゆる苦しみや悲しみ、あらゆる不公平な出来事等々、考えるだに恐ろしいマイナス要因を持ったさまざまな出来事と、神とはなかなか結びつかずにいます。

それらは全て悪の仕業、悪魔のせいである、と言っていればとても楽だったわけですが、このノートでは、それらもまた、いま一つの神の姿である、と神に帰した上に、更に、そうしたあらゆる事柄を、あろうことか、” 遊び ” である等と表現しています。

そんなことを言われてはたまらない、といった憤怒にも似た感情、あるいは割り切れない思いといったものが、読む人の心に湧き出してきたとしても不思議ではありません。

しかし、この言葉を、ただ単に ”あそび” といった音、あるいは通常的な観念のままで見てしまいますと、その裏にある、とてつもなく大きな、そして深い意味を捉え損なってしまいます。

私達はこのノートの中で、そうした概念、あるいは観念と言ったものを取り払っていただきたいと思い、さまざまなる記述、話をしてまいりました。

それらをいま一度、いえ、解らなければ二度でも三度でも、もっともっと何回でも読んでみていただきますならば、ここで言う ”遊び” の意味が何であるかを、よく汲み取っていただけるものと思います。

もちろんそのことは、いわば言葉の表現(余裕)であるとも言えますし、実際にその通りのことであると、改めてはっきり言うことが出来ると思います。

しかし、今までに人々は、神といいますものに対しての概念(あるいは観念)は、そのように、まるでおふざけのような遊戯(あそび)といった部分を含めては捉えてこなかったのですね。

『  』 と言ったとき、それはまことに厳粛極まりない、至高なる者の姿であり、表現でありましたから、そこにはいささかの歪みもひずみも割り込む余地の無い、完璧なものとして思考されてきたということでありましょう。

また、そのようにして人々の中に印象付けしてこなければならなかった大きな要因というものがありました。

子にとりましては、親とは絶対のものであり、何よりも力を持ち、頼れる存在であることが必要であり、そのことがまた、如何に日々の暮らしの中に 『 安心 』 といったものをもたらすものでありましたでしょうか・・・・。

今さら言うまでもないことではありますが、あなた方人々の、この地球上での歴史といいますものは、いわばそのまま一人の人間の一生に例えることが出来ると言えるのです。

そのことが、いつも私達の申します 『 あなた方はもやは幼子(おさなご)ではありません 』 と言う言葉でもありましょう。

つまりあなた方は、もはや他からのさまざまな指図で動く、と言いますか、あれはいけない、これは・・・・と言われるような存在ではなくなりましたよ、と言うことではないでしょうか。

はじめてあなた方の霊魂と言いますものが、この地上に降り立った太古の昔の時から考えますと、今はもう随分多くの時代を越えて来て、大人になったと言うことです。

はじめは、この自然界に存在するあらゆる者の中から、ものの考え方、生きる智慧、暮らしの在り方などを教えられてまいりました。

しかし、時代の移り変わりと共に、ほとんど多くの人々は、そのことから少しずつ離れはじめて、” 人 ” 独自の文化、あるいは文明といいますものを創りだし、築き上げてもまいりました。

人は人だけで生き、いかようにも大きく成長してきたかのような在り方、考え方が、現在のあなた方の生活の中では、ごく当たり前になってしまっているのです。

もちろん、そのことも含めて、あの至高なる宇宙意識の存在は、あなた方を自由に生かし、つまりは 『 遊ばせてきた 』 と言えるのです。


喧嘩・戦争する者、怪我をする者、病に倒れる者等々、まことに人の世界はさまざまに変化があり、ドラマがあり、飽きることがありません。

人は、どのようにも自由に思考を凝らし、自由にその歴史を型どっていくことを許されてまいりました。なぜならば、それら多くの事柄の中から、人は多くを学び、まことに喜びとするもの、喜ばしきこととは何であるかということを良く知るように仕組まれてきたと言えましょう。

あなた方は、このようにして地球上に人が一人生まれ、そして生き続け、死へと至ります過程を、何であると見るのでしょうか。

ただ単に、人が一回だけの人生で終わるとしましたら、どんなにか多くの充たされない思いを、その心に残して死にゆくことになるでしょうか。

もちろん、人生がただ一回であるがために、精一杯、心の限り、魂の限りを尽くして去り行く、と言う考え方もありましょうけど、そのような者の数はまことに少ないと言わざるを得ません。

人にとって、この地上に何回も何回も生まれ変わって来れますことの意味が、どれほど大きなものであるかを、是非知っていただきたいと思います。

そのことがまことに良く理解されますならば、たまたま一回の生の中で起きてまいります、さまざまな不公平や不条理な出来事も、また別なる生の中で解決され、満たされていくものであると知ることが出来ると思います。

そして、もう少し心にゆとりを持って、そうです、それこそ、ゆとり以上の遊び心を持って、自分の事も他の人のことも、楽しく見ていくことが出来ますようにと心から願わずにはいられないのです。

これら全てのことは、もちろんあなた方も含めた、神なる宇宙意識の計画  であり、仕事 であり、遊び であると、いま一度申し上げることに致しましょう。よいですね。

                                あいしています いえす

7--85 神と悪魔は同一

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑦-85  
3月2日(1989)のチャネル

(征さん) 今日もこのようにして一日が終わりました。忙しくしてはいましたが、まあいろいろとあったのです。気になること、といいますか、やはり一つの例として、ここに記しておいた方が良いと思います。

☆チャネル☆

はい、それが何であるかを、私達はここに言うことに致しましょう。
そのひとつは、やはりあの日曜日の夜に出逢ったキリスト者、つまりは教会の牧師と名乗る彼の言った言葉であると思います。

つまり彼はやはり、神と悪魔とは、はっきり分けて考えなければいけないということを、とにかく強く主張しようとしていたのです。

その主張は、多くの人々を善に導くことの骨子であるからなのです。

彼が人々の前で話す教理の中から、そのことを抜き取ってしまいますと、その屋台骨は崩れてしまいます。

彼はそのことを素早く感じ取ったのであり、つまりは、あなたに反論すると言うよりは、自分自身に言い聞かせていた、といった方が良いのかもしれません。いずれ彼自身の中で、解決の糸口は見つけ出されるに違いないのです。

彼はあの時、『 神はいずれ悪魔を許して下さるに違いない。しかしただ一つ許されないことがある。それは聖書の名を汚すことである 』 という事を強く述べていたのです。

いわば、私達はその聖書そのものであり、また、あなた方自身の本質的な魂こそが、聖書そのものであるはずなのですが、いま彼のような立場のものが、そのことをすぐ素直に受け入れていくと言ったことは、とても難しいことでありましょう。

” 神と悪魔 ” あるいは、” 神と人 ” とをはっきり分けて考えることによって、本質である大切なことが、大きく歪められてしまいました。
あまりにも旧態依然とした考え、教理に縛られすぎているようです。

このようなことは、これまでの歴史の中でも度々、直接的に私達の言葉、意思を取り次ぐことの出来た者によって、言い改められてきた事柄なのですが、なかなか持続されず、すぐにまた歪められてしまいました。

そればかりではありません。そのようにダイレクトに言葉を取り次ぐ者は、時として悪魔付き、あるいは魔女扱いをされ、社会から葬りさられたケース等が沢山ありました。

つまり、教理や教会そのものを形として守ること、また上に立つ者の地位の確保といったことが、何よりも優先されてきたということです。

そして、いまも又このようにして、私達はあなたや他のさまざまなる人々の口を通して、そのことをなそうとしているのです。

これらのことは、その受け止めようとする者の人==人間性、人格を通すことにより、その内容、表現の方法はさまざまに変化してきているのです。

また、それにもいろいろな段階はあります。さまざまな世相に合わせ、また、さまざまな魂の資質に合わせて、そのところでよく理解できますようと仕組まれているのです。

よいのです、信じてもらえるか、もらえないかを気にすることはありません。
とりあえずは、この新しき時代に向けての、新しい息吹に触れられたことを喜んでいただきたいと、私達は心から願わずにはいられません。

あなたも、また他なる人々も、まだ本当は、このことの本質を掴み取ってはいないのではないかと思います。まだまだ表面的なものを知っているにすぎません。
それでも、このことを心から信じて下さる方は、なんという幸せでありましょうか。

さあ、あの牧師さまの話から、ここまで話を進めてまいりました。
あの時、あなたが何の反論もしなかったのは、とても良いことでした。多分次の機会には、もう少し良く伝わることでしょう。

これらのことなど、まだまだ序の口です。本当に手ごわい方々は、これから次々と現れてまいりましょう。

あなたは、そのあるがままの状態で、よく私達をあらわすことが出来ます。あなたの持つ本来の姿勢を変える必要はありません。

何も特別なことは致しません。ごくシンプルに、そうです。ごく自然にやってまいりましょう・・・。

                      あいしています  いえす

7--81 異常気象の原因

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想)

⑦-81  
3月1日(1989)のチャネル

(征さん) おはようございます。とうとう三月になりました。それこそ長くもあり短くもありの日々であると思います。それにしても、この冬はあまりにも暖かくて、まあ俗に言う、気色悪いというか、何か良からぬことがあるのではないかと、みんな思いはじめているわけです。

☆チャネル☆

はい、そうですね。あなた方人々の感覚からすれば、この暖かさはまことに異常とも思えるに違いないのです。
この地球全体で言えば、それなりのバランスを保つ為の調整であり、それがたまたま、あなた方人々が長く馴染んでまいりました、季節的な感覚と一致していないというだけのことです。

やはりこの地球も、他から独立した、ただ一個の星というわけではなく、他の星々との関わりの中で存在していますから、それらの影響も多く受けることになってまいります。

また、あなた方人々の暮らしの在り方なども、この星全体のバランスに大きく作用していると言えるのです。

しかし、何であれ、それらは起こるべくして起きていることがらなのですから、いまさら驚くにはあたりません。
あなた方は、このようにして過ぎ去っていく日々の中で、せめてご自分達の生きる姿、生活感覚を大切にして、よく保ってくださいますようにとお願いしたいと思います。

この地球全体のことですとか、宇宙空間の中でのバランスですとかは、今の段階で、あなた方が如何に心を砕いたり考えこんでみたとしましても、即座にどうなるものでもありません。
今はとにかく、良く、素直に生きて下さいますようにと申し上げることに致しましょう。

この間、あなたの心にはさまざまな思いが去来してきたことを、私達は見てきました。これら私達との交流の世界と実際の生活空間との間(はざま)で、あなたが如何にさまざまな思いの中で生きているものであるかを、私達はよく知っています。

しかし、これらのことは、あなたの思っている以上に多くの人達に受け入れられていくと思いますよ。どうぞもうあまり考えすぎないことです。

                     あいしています  いえす。

7--79 神にすがる

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⑦-79
 
(征さん) もう一つの彼女の質問です。彼女は、お子さんの持つ障害を乗り切る(?)ために、ある宗教に入信し、信心してこれらたわけです。おそらく、その宗教に頼らなければ、お子さんとの苦しかった日々を耐えてこられなかった と彼女は考えており、私もそうに違いないと思うのです。

今こうして、私のノートの話に触れたことで、その宗教から抜け出そうとしているのですが、長年お世話になったことを思いますと、なかなか決心がつきかねている という事なのです。

☆チャネル☆
はい、そのことについては、それ以上を言う必要はありません。

人は誰であれ、そのように辛い時、苦しい時がありますし、そのような時こそ、神あるいは仏というものに、心からすがりたいと思わずにはいられないものであると、私達は良く知っているのです。

それが彼女にとっては、たまたま彼女の宗教の中の御本尊さまと言うものでありましたでしょうし、その中でまた、よく助けられてもまいりましたことでしょう。

それはたまたま ”御本尊さま” という形をとった宇宙意識そのものであり、また彼女の本質そのものであると言っても良いのではないでしょうか。

彼女は、足の悪い自分のお子を通してはじめて、眼には見えない何かに対し手を合わせ、心を傾けることをなしてまいりました。

もし、まだ彼女の中で、そのことが気になるようでありますならば、それを無理に引き離すことも、引き払うこともないと思います。

彼女にとりましては、またとない心の救いであり、よりどころであったのでしょうから・・・・。
決してそのようなことを気にしたり、こだわったりすることはありません。

たとえば、私イエスにまつわりますキリスト教の中でさえも、いわゆる 『 眼には見えない、唯一全能なる神 』 といいながらも、形ある教会を建て、あまつさえこの私の、あの十字架上の苦しき死の姿を絶えず掲げ、その私の姿に手を合わせ、祈り続けているのです。

まことを言えば、彼女の信心してまいりましたあの一つの宗教、その中で多くの人々が手を合わせ拝んでまいりました御本尊さまと、まったく同じ構図であると言えましょう。

私(イエス)を通さなければ、本当の救いは無いとして、他の宗教を認めようとしない在り方等は、まことにもってよく似ているのではないかと思います。(*他の宗教を認めないのは、神を認めていないのと同じような事であろう) 

今までは、実に多くの人々が、さまざまなる形をした宗教の中で、いわゆる多くの信仰心を傾けてまいりましたけれど、これより先は、そのような ”形” といいますものを、次々と外していく時でありましょう。

でも、何も心配は要りません。彼女の気の済むまで、御本尊さまを大切になさるとよろしいのです。無理をして自分を変えていくことはありません。

                     あいしています いえす
~~~~~~~~~~~~~~~~~

**征さんの解説**

彼女は、私の古くからの友人ですが、心身に軽度の障害を持ったお子さんを出産したことから、夫婦間や、ご家族の間で、大変な精神的苦労をされました。

そのことから、ある教団に入信し、それを心の救い、よりどころとしてきたということです。

彼女が、私のノートのコピーを始めて読んだ時期に、それと並行して私はそのお子さんの手当てをすることになったのです。

たまたま、そのお子さんの悪い足は、みるみる癒えていきました。もちろん完治というわけにはまいりませんが、かなり良い状態にまでになりました。

いま読んでいただいたのは、そんな中で私が彼女から受けた悩み事といいますか、相談ごとのやりとりなのです。

同じテーマであっても、人によってはもっと深刻に考え込む人もいるでしょうし、軽く受け流し、前向きに積極的に生きていける人もいると思うのです。ですから、同じような内容の質問であっても、アドバイスはその人その人によって異なるものだろうと思います。

以前の本の中で記述されていますように、ある人には急ぎなさいと言い、ある人には、どうぞゆっくりと・・・と言うことかと思います。

このような答え方のパターン ( つまり厳しくなったり、優しくなったりといったこと ) は、あらゆるものに共通するものであると思います。みな各々に、歩く早さ、生きる姿勢がとても違っているからだと思います。

かく言う私は、とてもせっかちと言いますか、即実行型ですから、ついつい周りにもそれを強いてしまいがちで、反省しなければ、と思いますが・・・・。

このようなこと、蛇足かと思いましたが、少し付け加えてみました。

7--75 霊魂が肉体に宿るタイミング

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想)  


⑦-75  
2月21日(1989)のチャネル

(征さん) 昨日友人のYさんから受けた質問です。

人の魂というものは、いつの段階で肉体に宿るのかしら?ということです。Yさんには、足に障害を持つお子さんがいるのですが、その原因は彼女の妊娠中にあった精神的なものが影響したのではないか、と彼女自身は心配し、気にしているのですが・・・・

☆チャネル☆

はい、その事については、昨日あなたも話していましたように、直接的には関係ありません。
ただ、精神的なものについては、母親がその子を胎内に宿していた時、何を考え、どのようなことに関心を持っていたか、といったことは、生まれてくる子供との関係に於いて、当然影響してまいります。しかし、そのことが直接肉体的な形 (障害) となって現れることはありません。

肉体的なことで言えば、もちろんその時の遺伝子の問題があります。
たまたま交わることになりました精子と卵子のいずれかに、遺伝子の乱れ、あるいは妊娠後の食生活その他の影響が、そのまま胎児の肉体となって現れることになりますが、そこに宿るべき霊魂には、何も問題はありません。
つまり、霊魂(意識体)そのものには、姿形がないことによるものです。

ただ、一つ傾向、願いとして、そのような障害を持った肉体に宿るべく待機している魂はあります。つまり、魂の方で、そのような肉体を選ぶということです。

そのことは、さまざまな過去世で引き起こしてしまった何か、言い換えますならば、未解決な問題を残している魂によって、待たれているということです。

(*別の人のチャネルでは、カルマのバランスをとる為と言っている

そのようにして待っている魂にとっての肉体的な条件と、人間的な関係とがうまく合わなければなりません。

良いでしょうか。自らそのようにして、条件の悪い肉体に宿ろうとすることは、大変に勇気のいることです。
よほど精神的な条件、つまりは強さ、あるいは必要性といったものがないと、なかなかそのようになっては参りません。

出来得るならば、出来るだけ無難なところでお茶をにごしてしまい、なかなか思い切ったカルマの解消ということにはならないのです。

しかし、現代(いま)といいます時代、人々はさまざまなる科学物質を伴った生活環境の中で生きているのですから、そのようなハンディを伴った肉体の生まれるチャンス(条件)は、これまでの時代には想像出来なかったほどに多くあると言えるでしょう。

そして人(魂)は、どのような肉体を選ぶことも自由であると言えるのです。

ですから、待機している魂といいますものは、その母親の体内で生じた新しい生命の形態と言いますものを、即座にみてとる、といいますか、感じ取った上で、己の体として選ぶかどうか決めてまいります。

もしもその選択がなされない場合は、その結合は保たれないと言うことになります。(*流産してしまうと言うことなのか?

ですから、魂が肉体に宿るといいますことは、その新しい生命の育ち得る条件が整ったときであり、それ以前は、見ている、見守っていると言えるのです。

しかし、その期間はそう長くはありません。
もちろん新しい生命として育ち始まったときには、それを選び取った魂は、いつでもその体に入ることが出来ます。そして、その育ち行く体と共に、母の胎内で過ごすことも自由になるのです。

良いでしょうか。たとえどんなに小さな肉体に宿ったと致しましても、その霊魂には、大きな自由意志というものが働いているということを忘れてはいけません。

そして、月満ちて出産されますと、それ以前に生きた記憶(過去世)は全て消し去られます。

そのことは、まことに誰一人例外なくなされますが、まれにそのことから外されて生まれ出る魂もあります。
そのことは、例外、偶然といったものではなく、そのこと自体に大きな意味が持たされているということなのです。

つまり、人の魂といいますものが、決してその時だけのものではなく、それ以前の生から引き継がれているものであるということの、証しのような役割と考えていただければ良いでしょうか・・・・。

話を前に戻してまいりましょう。
あなたへ質問したあのご婦人には、どうぞよろしくお伝え下さい。
彼女がずっと気にしていた、その頃の夫君への恨みなどは、いささかも問題となっていない(胎児に影響していない)と言うことなのです。

あくまでも、そのお子さんの(魂の)人格と選択の問題であり、彼女達親子の、それ以前の生にまつわる関係であると言えましょう。

小さな彼女は、自分のそのようなハンディを持った体を通して何かを学び、生きていくか、と言うことであり、母となった者にとりましては、そのようはお子を通して、やはり何かを知り、何をどう変化させ得るのか、そのお子と共にどう生きていくのか、ではないでしょうか。下手な自己規制や自己嫌悪からは何も生まれてはまいりませんでしょう。



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