無量大数 (山田征さんのチャネリング)

山田征さんのチャネル(1988年から数年)を抜粋編集して紹介

2015年06月

6--98 霊能者

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想)

⑥-98  
12月20日(1988)のチャネル
 
(征さん)いまよく耳にすることなのですが、人としての、つまり人生経験がそれほどないままに、次々と不思議な力が開かれて、自分だけではなく、他の人達の過去世をみたり、いろいろな人生相談にのったり、つまり、それをビジネスにしてしまう人達が増えているようです。時々、そんな事をしていいのかなーと思ってしまいます。

☆☆ チャネル ☆☆

はい、あなたの心配は尤もなことです。
しかしお金を頂きながらのそれらのことが何を生み出していくかは、それらのことをなしながら、その人自身が知って行くに違いないのです。まことに今の世相をよく現わしているいるのではありませんか。

これから先、そのような人達がどれほど多く生まれていきますことか・・・・。

皆何かを求めています。その何かとは、神の世界、あるいは真理、あるいは不可視の世界などと、人はそれぞれに異なった表現をつかって求めあっていましょう。

素直に ”神” とは呼ばない者もおりましょう。
しかし、それら何かを求めてやまぬ人々にありましては、その求めます心の故に、そのことがたとえ何であれ、すこしでも手掛かりとなるかに見えますものに対して、なんの抵抗もなく入りこんでいってしまうのです。

いま流行りのさまざまなる講座と言いますものには、難なくそれらの若者たちを集め、ある種のテクニックによってその魂を捉えてまいりましょう。それもまた一つの方法というものです。

しかし人々は必ずいつか、それだけではすまないものを感じ始めるのです。それだけでは決して充たされはしないのです。そのときこそ、しっかりと受け止める事の出来ます ”何か” が要りましょう。
私達がいま、あなた方に求めていますのはそのことであり、その為の準備といって良いのです。

これから先、このような霊的なこと、不可視の世界を伝えようとする人々のありさまは、どれほど多種多様化していきますことか・・・・・測りがたいことでありましょう。
まだまだこれからのことでありましょう。
実に多くの自称 ”霊能者” といいますものが現れてまいります。

それであればこそ、その一番基いとなるべきものを必要としているのです。

あなた方がこのようにして、私達の伝えます事柄を、どのように扱っていくか、どのようにして世に現わしていきますかは、他の多くの方々にとりましても、まことにスタンダードな出来事となってまいりますでしょう。
それならばこそ、私達はこのようにして、しつこくしつこく、あなたへの語りがけをしているのです。

このノートになりましてからは、際立って新しい事柄は何も伝えてまいりませんでした。
良いでしょうか。これが私達のテクニックと言うものです。
あなたに少し、さまざまに考えて欲しいと思いましたから、大まかなことがらは、今までのノートで全て伝えてあります。あとはそれをどう消化していくかと言うことです。

あなたは今、本当にそうだろうか? と不信の念を抱きました。
でも考えてもごらんなさい。
建物を建てるとき、はじめはまず骨組みだけのことです。
その骨組みだけを見て、そのあとに形作られる全体像をすべて思い浮かべることの出来ます者は、相当な者でありましょう。

これから先は、さまざまな人々との関わり、さまざまな事柄との関わりの中から肉付けをしてまいります。
あなた方がまだ知りたいことがあるとしましたら、それが何であるかをよく考えていただきたいと思います。
もちろんあなただけはでなく、他の方々にも考えていただくと良いのです。

さあ、なすべきことをなしたまえ。

                            いえす

6--90 仏と宇宙

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥ー90  
12月19日(1988)のチャネル

(征さん)和歌山へ旅をしていましたので、二日ばかりノートを開くことを致しませんでした。この前沖縄の彼に、ノートNO-8を送りましたが、そのことを機にいま一度読み直してみましたが、なかなか面白い中味だと今更ながら思います。あのノートが一冊あれば、もうそれでもいいのではないのかと言う気さえ致します。

☆☆ チャネル ☆☆

はい、お久しぶりです。あなたはそのように受け止めましたか。まことにあのノートはそのようなものであると言うことが出来ましょう。もの凄いエネルギーを秘めたノートであると言えるのです。

あのノートを、あなたはなかなか彼に送ることをしませんでしたが、彼は、あなたの予想を越えてよく受け止める者でありました。
いまの彼にとりましては、これらのノートの中味は、どれほど生きる喜びになりますことか、あなたも少し察してみると良いのです。良いお仲間です。

いますぐに、これらのものが世に顕され、万人に認められるものになる必要はありません。むしろこれらのことは、これより先に生きる人々にとっての道標(みちしるべ)となってまいりましょう

初めは僅かなる者によって知られるものとなりましょう。それにて良しのことなのです。
 

さてそれでは、一昨日のこと、あなた方がその目にて見てまいりました、あの数体の仏像のことについて話してまいりましょう。

私は数日前、あなたにこれらの仏像についての話を少し致しました。はからずも、そのすぐ後に、これら数々の仏像に触れる機会が訪れてまいりました。このことは偶然にしていは出来過ぎているとは思いませんか?どうでしょう。

その中では、特に私に関するものでのお話が出来るかと思います。あの四角くい広い部屋の中には、かなりの数の仏像が並べられてありました。その中には私と称するものが三体あったのです。それぞれの作者が異なりました事は言うまでもありません。

その中の一体は、つい先日あなたが彼の書物の中で読みました、あのアラブの地、ガンダーラにて創られた作品でした。あなたはその作品に身も心も吸い寄せられていくのを感じたことでしょう。

そうです。あの仏像はまことによく私を現わしていると言えるのです。私の容貌はあの姿のうちによく現わされていました。
私はあのようなものでありましたよ。良く似ているのです。ですから、あなたはあの姿の前から離れる事が出来なかったのです。

前にも申しましたように、仏像と言いますものは、その作者をよく表し、その創られた国の人物風貌をよく表現していくものなのです。
ですから、中国で創られたもの、日本で創られたもの、みなそれぞれに、そのお国柄を表していると言えましょう。
私の国インドで創られましたものは、またそれらしい風貌となっているですが、しかしあの仏像は、よく私に似ていると言えましょう。(ホントかな?)

さて、あの部屋と言いますか、あの寺といいますものは、まことに面白き側面をよく表していたと言えましょう。

もちろんあの寺で言う神仏の神とは、私達の言いますところの宇宙的存在をそのまま言っているとは思いませんが、それでもその二つ、いわゆる神と仏を同時に祀るといったことを、いまもそのまま行っていますのは、とても珍しいのではないかと思います。

それは、私達が常に申してまいりました 「私・仏陀も、彼・イエスも、まことは同じ一つの元より出たるものである」 と言います事を良く表しているとも言え、その表現のありようがとても面白いと言えましょう。
 20141230 073

さて、これより先は、このようにして少しずつ、『 仏とは一体如何なるものにてあるや・・・ 』 と話を進めていくことに致しましょう。
まずあなた方は、一般的にはどのような解釈がなされているかを知るために、辞書をひも解いてみると良いのです。

仏=仏陀 、キリスト言いますと、キリスト意識=宇宙意識という前に、まずあなた方の脳裡にはイエスのことが思い浮かんでくるのです。

それと全く同じ意味で、仏陀と言いますと、やはり宇宙意識としてではなく、私個人を想い起してしまうと言えるのではないでしょうか。それほどに私達は、洋の東西をわけてのそれらの代表者であったと言えましょう。

ここで注意しなければならないのは、今私の申しました 「洋の東西」 と言う言い方です。
何も彼イエスは西洋の生まれではないのですが、彼以後の社会的動向の中にあって、いわゆる ”西洋文明” といわれます国々の人々への吸収率が非常に高かったことによるものです。

それらはひとえに、これらの教えを伝える伝道のあり方にもよりましょうが、これら国々の人々の持つ考え方、精神的構造によく合致したものであったと言えましょう。
また、当時すべての文明文化の中心となっていましたローマの支配下による影響と言いますものがとても大きかったと言わざるを得ません。
 
ともかく、彼の教えと言いますものは、それら西洋文明文化を支える大きな精神的下地となっていますことは否むべきものではありますまい。

そしてまた、私の紐解きました教えと言いますものは、あなた方が良くご存じの ”仏教” といった形で東洋全域へと広がってもまいりました。

もちろんずっと時代を下って行きますと、それぞれの思想と言いますものは、さまざまに入り組んでまいりますが、大きくは今でもそうであると言えるでしょう。

つまりこの地球全域には、古今東西、大小さまざま、実に多くの土着宗教、あるいは宗教とまでいかなくても、個々なる信仰形態がありますのに、このように私と彼イエス、そして仏教とキリスト教といった、何か大きく対峙する形でふたつのものがありますことは、とても面白い、いえ興味のある事だと思います。


さて、話は少し広がりすぎてしまいました。先程のことに戻してまいりましょう。

仏と言いますと、つまりは私に代表される仏陀のことであり、それがさまざまにくだけた言い方へと広がってまいります。

つまり、どなたであれ人が他界いたしますと、その姿を ”仏” になったと申します。
私はいまそのことを、くだけた言い方と申しましたが、実際にはこれこそが本当の言い方であって良いのです。

人は誰であれ、死してみてはじめて、己の本来の姿が何であるかに気付いてまいります。自分の本当の姿、本来の姿こそは、この宇宙の根源意識へ繋がるものであることを知っていくのです。

もちろん、その意識にはさまざまな違いがあることも含めて知っていくのです。
しかしその根源意識こそは自分であること、そのことがまた仏陀であり、仏といわれる姿であると言うことなのです。

キリストと言おうと、仏と言おうと、それは全く同じことを言っていると言えるのです。

あなたは今、これまで私が述べました事柄が、現実の社会的な意識と合っているのかどうか心配し始めています。さあそのことは、あなたが改めて人に聞くなり、何かの書物によって学ぶことでしかはっきりは致しませんでしょう。

さて、彼イエスにまつわります事柄、文献と言いますものは、一つの大きな図書館が出来ますほどに多く在るのと同じように、私のそれもどれほどの量にのぼるや見当もつきますまい。

私亡きあと、二千数百年といいます時の流れがありました。その間にどれほど多くの者が私の教えを学び、ひもとき、その教えにそって生きてまいりましたことか、そのことは決して量的な感覚などで言うことはできないのです。
みなそれなりに、私の教えに学び、従ってもまいりましたでしょう。それらのことが基盤となり、東洋には東洋なりの大きな文化が花開いてまいりました。

しかし、そのことをあなたが意識し恐れる事はありません。多少の歴史的知識の間違いがあったと致しましても、そのことは良いのです。
いま私が何を伝えようとしていますかをしっかりと捉えて下さるならば、そのようなこと、いかばかりのことでありましょうか。

もちろん私があなたに第一義に捉えていただきたいことは、前にも申しましたように、本当に何気なく生きてまいりますその日々の暮らしの中の、一つひとつの出来事、その出来事の中にひそむ、ゆるぎない真理と言いますものなのです。
何気ない仕草、言葉のはしばしから感じる事の出来る、平安と幸せの心です。

では、それはどこから来るものであるか?、と言いますならば、それはあなた方の心の奥深くにそっと眠り続けて在ります、いわゆる ”仏心” と言うものなのです。

皆様の胸の内には、誰あますことなく、そのやさしい仏心、いわゆる良心と言うものが在ります。それが神の火種子というものでありましょう。

もはやあなた方は、このように二重になったような言い方をしなくても、充分にすべてのことを、感じ取るだけの心と言いますものを持っているのではないでしょうか。

しかし、やはりあなた方のお国は、この東洋といわれる地域にしっかりと所在いたしますだけに、私の教えに根ざしたさまざまな教義が、さまざまに、さまざまなる者の手、口により広められ、、形を変えて新しく開講せられてまいりました。
いわゆる新興宗教と言われるものの数は、他に類を見ぬほどの量となってもおりましょう。

もちろんその中で、多くの方々は、良く識りよく生きることをなしていくわけでありますが、中には何らかの名誉でありますとか、権力の場を競うことのために、うまく利用しているものもあるように見受けられます。

そのことが私はとても悲しい。
しかし、私達はそれらを越え、いえ、それらをすべて含む者でありますから、そのことをさらに伝えてまいりたいと思います。よいでしょうか。

またあとで語りましょう。

                             仏陀


6--85 宇宙の理念

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥-85 
(征さん)先程来、私は、友人にもらった ”シルクロード航海記” と言う本を読んでいます。 ~ 
イエスさまの話がチラと出てきたり、12人の弟子の中で一番疑い深かったトマスのお話が出てくるのが、とても面白いと思いました。トマスがイエスさまの言いつけで、遠いインドの方まで宣教に行った話など、私は知りませんでした。そしてある時、クジャクに囲まれながらお祈りをしていると、そのクジャクを仕留めようとした人の矢に当たり死んでしまった、なんて話も全然知りませんでした。

この本は別にキリスト教のことを書こうとしているわけでなく、海のシルクロードを通ってインドに渡ったもののなかに ”イエス・キリスト” の思想があったと言うこと、ことにマルコポーロは熱心なクリスチャンであったことなどを、その中で言おうとしているのです。

また、お釈迦様のことも書いてあって、インドや中国、そして日本でも沢山あるあの仏像は、実は仏教を広めようとしてガンダーラまで旅した僧達が、そこにギリシャ神話の世界の彫像を目の当たりにしたことが始まりであった、と言う話も面白いと思いました。それまでは、その弟子達は、釈迦とは形のないもの、宇宙そのもであるとし、形として表現することは出来ないと考えていたとのことでした。優しい言葉でつづられていて、つい読みふけってしまいました。

☆☆ チャネル ☆☆

はい、あの本の中で、今まであまり人々に知られることのなかったお話をいろいろと書いています事は、有り難いことです。
あなたにとりましても、すこし異なった視野といったものが広がってまいりますでしょう。

私イエスの弟子として生きた者達については、一人一人にその生きた軌跡としての物語がありますのは当然のことでありましょう。

私が生存し、彼らがまだ私と共にありました時には、まるで何も知らない幼子のように私にすべてを委ねていたもの達でありましたが、私亡きあとは、その一人一人がどんなに強く賢く勇気を持って生きた者達でありましたかを、あなた方は世界の歴史の中の、そこかしこでかいま見ることになりましょう。
 
もちろん彼トマスがインドに渡りましたのは、私の生存中のことではありません。

すべてのことは、今のあなたにしていますように、彼らにもまた、その心のうちに語りかけもし、促してもまいりました。

それ以前の私は、インドの地、あるいはさらに奥地へと旅をしたものでありますから、彼もまたその足跡をたどる旅であったのです。決して異郷の地に私の教えを伝えると言うことだけが目的ではありませんでした。彼らもまた、別なる教え(つまり仏陀の教え)を自分のものとして識る必要があったものなのです。

 私が直接にさまざまなる物事を伝えましたこれらの弟子達は、人の生命の輪廻のことばかりでなく、この地上には他にも(魂の上で) 私に連なる 偉大なる教師達が人として生きていたこと、その残しました教えの数々は膨大な量であることも良く知っている者でありました。ですから彼トマスはインドへも渡り、そのことを人として学ぶことを行ったと言えるでしょう。

このようにして、ふとしたことをきっかけにして、私達はあなたにいろいろな事をお話していくことが出来るというわけです。

そうです。過去にありましてさまざまに生きたことのあります魂の持主が、今生でもまたその軌跡を辿るかのようにして生きているとも言えましょう。
彼の仕事はまさにこれからと言えましょう。あなた方はまた彼により知らされ教えられることが多くあるはずです。
 
☆☆チャネル☆☆ 

さて、それでは今度は私が語ると致します。
私についての記述も彼の書物の中に在りましたこと、まことに尤もなことと思います。
彼はまた私のもとにも、私の生きたこのインドの地にあっても幾重にもゆかりのある者でありましたから、その魂の上でさまざまにその生きた軌跡を辿る者として、いま生きていると言えるのです。
かの者の企画によります画像を通し、あなた方はどれほど多くの他に生きる人々の姿を見る事が出来ましたでしょうか。彼の手柄はまことに見事と言えましょう。
 
さて私の教えと言いますものは、後になって人々の手によりまとめられていったものでありますが、まとめる者に対しましての私達による働きかけも当然ありました。

しかし、聖書に比べてその量も多く (つまり私は彼に比べ、非常に長命であったことによるものです)、その全量を読みこなすのは大変なことでありましょう。そのこと故に僧は職業となりました。
私の教えのすべとを会得しますには、在家のままではなかなか難しいことでした。また、世俗を捨てることが、仏に近づく為の修行であると考えられていました。

しかし私の教え、伝えましたものは、つまるところ、人は何か、人とはいかに生きるべきであるか、といったところにありましたから、そのようにして、世俗を離れたところで学んだと致しましても、日々の暮らしの中に活かさなければ、何もならないわけです。そのあたりのことを、いま少し良く考えてみなければいけませんね。

さて、仏像とはまことにもって ”形” ではありますが、その造り手の心、魂の所在を良く表しているものです。すべての形のあるものにも、また私達の心は宿ります。人々のつかみ得ぬ理念を、造り手の魂はよく表すことを可能とならしめていると言えるのです。

あながち、偶像崇拝とのみ言いきることは出来ません。要はその心の所在、ありようが何であるかでありましょう。人の世界、人の心の中に在りあますさまざまなる感情、あるいは希いと言いますものを、それら多くの仏像は良く表し得ていると言えるでしょう。

人はそれらの姿の中に、本来あるべき自が姿、心の所在と言いますものを かいま 見る事になりましょう。

私の ”釈迦” と言います呼び名は、彼イエスの ”キリスト” と同じであると前にも申しました。

つまりは宇宙意識そのものの呼称であります。

いいですか?                     仏陀


☆☆ チャネル ☆☆ 
そうです。いま少し語りたいと思います。

あのキリストと言いたる我がいま一つの呼び名あり”    という切り出しの記述をいま一度振り返ってみると良いのです。それは私の説きました世界でもまた等しく言うことが出来るのです。

私達は全く同じ根源から出(イデ)たものでありました。ほとんど一つのものなのです。
しかし魂にはそれぞれ個性と言うものがあります。ですから私は私なりの表現で解き明かしてまいりました。

バイブルがイエスの手によって記されたものでないように、私の経典もまたそうではありますが、もちろんその元なるものは、私より出(イデ)でたる私の思想です。いえ宇宙の理念でありましょう。

そして現在(イマ)に通ずるものが多くあります。

遅くなりました、休むと致します。

                                 仏陀

6--80 チャネルの不安

⑥ー80  
12月15日のチャネル
(征さん)私は、このノートが無差別に人に見られる事もあるかもしれない、と言った事を前提にして、いろいろと疑問や不安、あるいは不満を差しはさんでいます。
出来たら、このようなノートはあまり他人には見せたくないといった想いです。ですからノートをもう一冊別にしようと思い、そのように致しました。

大勢の人達の前に、何かこの宇宙の仕組みや出来事、あるいは霊界と言われます世界のことを、霊界通信とか、霊言集等々と言って明らかにしている人達は沢山います。

もちろん、そのように自ら積極的に人々の前に自分の受け取ったものを明らかにしていこうとする人達は、それはそれで良いと思うのです。それなりの自信と言ったものがあるのでしょうから・・・・。

私は別に自信がないとか、これらのことが嘘であるとか、真実味が薄いなどとは決して思わないのですが、だからと言って、このようなノートを人前にさらすと言いますか、公開したいとは思わないです。

今はもういいです。こんな話をしていますと、なんだか堂々巡りになってしまいそうですから、取り敢えずはこのようにして受け止めて行こうとは思います。ごめんなさい。
☆☆ チャネル ☆☆

そうですね。先程私達はあなたに口頭で少しばかりお話致しました。
もちろん声で話す (チャネルする) と言います事は、前にも申しましたように、記録としては残りません。

しかし今あなたが持ち出してまいりました、「 もうあまり人には見せたくない」 と言った部分のことなどは、口頭による会話として成り立たせることも出来ると言うことです。
もちろん秘密と言ったようなことではありませんが、言葉によるチャネルを一つの試みとしてやったのは良いことだと思います。

いずれこの事は、非常に役立つことになっていくはずです。私達があなたの口を通してお話しすることも出来るというわけです。
しかしそのこともまた、このようにして書くここと同じで、あなたの思考範囲のことに限られていくと言うことです。
でもあなたは、人前でそのようなことをするということには、かなり抵抗を示すだろうと私達は見ています。しばらくはあなた一人のお芝居のつもりでいればよろしいでしょう。

ただし、あなたの質問、疑問を声に出して言う必要はありません。自分の中で思えばいいだけのことです。私達はそれに対しての答えしてまいります。
それらのことはごく自然な形で成されてまいりますから、よそから見た場合には、まるであなたの考えであるかのようになされてまいります。実際それはそうであると言っても良いことです。あなたの意志によるものと思って良いのです。

 

*征さんのト書き ーー 2冊にしたノートについて

ノートを書き始めた頃、そのことは本当にただ面白くて、気持の中で絶えず 「 これはほんとかな? それともただの錯覚かな・? 」などど思い続けていたわけです。ですから、そのあたりの事を確認したいという思いも含めて、身近な友人に話したり 「 どう思う?」と読んで聞かせたりもしました。

読んでみては、何時もの私の書く文章とはやはり違っている、やっぱりどこか他からの働きかけ、語りかけによる話に違いないと言い合ったりもしたものです。

ですから、興味を持って下さる方には、ついその気になって、それこそ 「 聞いて聞いて!」 ではありませんが、「 昨日はこう、今日はこんな話」 と読んで聞かせる事が良くありました。
いま思いますと、本当にとても幼いと言いますか、恥ずかしいような自分を見る気が致します。

人によっては、ただあっけにとられると言うのでしょうか、「 山田さん、また変な事を言い出したみたい!でも山田さんの言う事だから・・・」 と、古くからの友人達は黙って受け止めてくれました。

この ”また・・・” には訳があります。ある時期、私の娘達の中で、いろんな不思議な出来事が起きたことがありました。
その時も私は、ごく身近にいた何人かの友人に、そのことを 「ね、聞いて聞いて・・・」 と良く話していました。ですから ”また” なわけです。

初めは、このノートの性格と言いますか、方向といったものが、一体どうなっていくのか、私自身さっぱり分からなかったのです。
ですから、面白がって書いては人に見せたり、読んで聞いてもらったり、時にはコピーして差し上げることさえありました。
考えてみますと、本当に馬鹿な恥ずかしい事ばかりしていました。

当然娘達にもこのことは話したのですが、「やっぱり、うちのお母さん少し変、変わってるな・・・」 と思うのか、真面目に取り合ってくれません。
それどころか、「お母さん、いつまでそんなことに興味持ってるの?」 と長女にまで言われ・・・・
そんな長女はまだ幼いころ、自由自在に身体を脱け出しては、あちこち異次元の世界に往来していたのです。

そして主人などは、そんな娘をつかまえては 「ねえ、うちのお母さん、まさか変になって、新興宗教でも興そうと言うんじゃないだろうね・・・・」 と言ったというのです。

もちろん私はそんなに無差別に誰彼に話したわけではありません。それなりに解ってもらえそうな人に 「まあ、こんな話、こんな面白いこともあるんだけど・・・」と言った事を話した位のものでした。

でも、だんだん日にちが経ち、ノートの数も増え、それこそこれまで読んでいただいたような内容の話が、ずっと毎日続いていくものですから、私も少しは本気と言いますか、真面目にならざるを得ないものを、自分の中で少しずつ感じるようになっていきました。

その頃にすでに私のノートは、半ば公と言いますか、何人かに見せるのが習慣になってしまっているところもありましたので、ノートを開いて書くと言います事は、そのままそれらの人に見せる、人が見る事を前提にして書くといった向きがあったのです。

しかし、話(チャネル)の相手との関係は、非常に個人的なものであり、私の過去世のようなもの、あるいは非常にプライベートな精神的思考のことなど、構わずに語りかけてきてしまいます。私は  これではたまらん  と思い、ノートをもう一冊用意することにしてしまいました。いわば、私用と公用といった二重帳簿のようなものでした。

しかしこのような内面的、精神的な話を右と左のように双つに分けて書く、考えると言った事は、土台ムリな話でした。書きながらいろいろ考えてしまいますから、何かどちらも中途半端になってしまいます。

いま読んでいただきました辺りは、そのようにして私がとても揺れ、中途半端な気分で過ごしていた頃でありました。

結局、いまではノートは一冊ですし、最初の頃のように、他の人達に見せたり、読んで聞かせると言うことはしていません。

ただ私のノートは、”ただ言葉を書いている” と言うだけのものではなく、その時その時にかかってくるエネルギーそのものの表現ですから、そのエネルギーを文字として表しているノート自体が、一つの芸術性を帯びていると言っても言い過ぎではないと思います。

ただ、語り手としての 、いえす、まりあ、るしえる等々の サインは、今でもまだ 『ほんとかな~?』 と言った思いは拭い去ることが出来ません。ですから、本を読んで下さった方が、どうも ”本気” にそうだと思っているらしいと分かりますと、私はつい否定せざるを得なくなります。次のようにーーー

本当にホントかどうか分からないのです。もっと気軽に読んでください。


6--57 あるがままに の真意

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想)

⑥ー57  
12月15日(1988)のチャネル
 
(征さん)おはようございます。今朝、ちょっと解ったような気がします。

結局私達は、何もしなくても良いと言いながらも、次々と何かをせずにはいられないわけです。多分、「何もしなくてもいい」 と言うことの中味の問題なのだと思います。「ただ、あるがままに、素直に」と言った事が何であるのか。

私の今までのありようは(たとえ傍から見ていてどうあれ)自分に対して非常に素直に生きてきたと思っています。

もちろん周りとの関係があるわけですから、100%そうであるとは言えないのかもしれませんが、基本的には自分の思うように、気のおもむくままに生きてきたと思います。

昨夜お店にいらした方が、私のチャネル内容と、「なまけものの悟り方」 の内容は非常に近くて良く似ていると言いました。私もなんとなくそう感じていますし、結局言わんとしていることの中味は同じだと思うのです。ただあの本の言葉の表現が、非常に抽象的で哲学的であるように思えてしまいます。

結局あれは、ある程度高度な判断力を持った知識人向けになってしまっているような気がしています。

表現はとてもシンプルで、無駄が無いわけですが、場合によっては、私達は、その無駄とも思える煩わしさの部分で理解している、といったこともあるのではないかと思います。

以前はそうは思はなかったのですが、自分がこのような事を書くようになってからは、そんな風に思えてしまいます。おかしいですね。

「何もしなくてもいい、そのままでどうぞ・・・」と言われても、やっぱり人は何かをしたいのです。きっと、無駄と思えることを沢山やりたいのだと思います。

やりたかったら、やりゃいいんだ!と思う訳です。もちろんあなた方も、そのように言って下さっているのだと思います。

結局私は、このようにいろいろ伝えていただいた事により、また、それを 「私以外の他の人達にも伝えて欲しい」 と言ったようなことを言われてしまったことにより、私の中に、今までにはなかった こだわり のようなものが生じてしまったのだと思います。

「何か本当にやらなくちゃいけないのかしら?」 と言った思いです。

「何もしなくていい」 といった言葉とは裏腹に、あなた方からは随分多くのやるべき事柄のようなものが伝えられていると思います。そのあたりの事が多分、私の中の こだわり と 迷い になっているのだと思います。どうでしょうか。

☆☆ チャネル ☆☆

はい、先日も申しましたように、これらのノートの中味は、たとえ何であれ、あなたの言葉であり、あなたの表現であると言えるのです。
私達の個性があると同時に、あなたの個性そのものが、このノートの上には充分現わされています。
そして何よりも、あなた自身が良く理解し得るような言い回しになっているということです。

一つのことを表現し、言おうとする時、それはあなたの中に在る多くの潜在的な意識、あるいは知識といったものを下地になされてまいります。

ですから、これらを読む人には、一体何を言おうとしているのか解らなくても、あなたの中では、これはこうだから、とか、このような背景があるからこのような表現になっている、と言った事が、説明なしで理解されています。
 
「なまけものの悟り方」 を書いたゴラス氏の場合にも当然そのことは言えるわけですから、彼はあれで充分に表現し得ていると言えるのです。もちろん翻訳者との関係もあることでしょう。

確かにあなたの言いますように、例えば、コーヒーあるいは紅茶カップを捉えての説明などは、言ってみれば化学の実験過程を論理的に説明しようとしているかのようで、あなたにとっては面白くないのかもしれません。あなたは物事をそういう風には捉えていないからです。

ですから、今度は他の方達がこれらのこと (ノート) を読む場合、その受け取り方はさまざまに異なってまいりましょう。
あなたとはまた異なった思考回路、あるいは感覚の方々が読むことになるのですから。

そのことはさておき、いまあなたが私達にぶつけてまいりました問題があります。

それは、このノートの中で、私達は幾度となく 「もう何もしなくていい」 といった言い方をしながら、いえ、その ”あるがままに” といった言い方が全体のベースになっていますのに、あなたに対しましては、次々と成すべき事などを伝えているといった矛盾についてなのです。

この世での救い主は 「あなた方一人一人ですよ」 と言いながら、その舌が乾かないうちに、あなたの成すべき事柄を次々と伝えるたりする事に対しての疑問であり、不満であるかと思います。
 
そうですね。今までの歴史を振り返ってみましても、あの普遍なるバイブル、あるいは経典、あるいはコーラン、そういった多くの人々にとって共通の心の糧となり、生きるための指針となりますものが、あなた方人々の前に存在し、世に在り続けてまいりました。

それが在ると無いとでは、あなた方人々の生きる日々の生活の中で、どれほどの大きな違いが生じてしまいますかを、あなたは考えたことがありますでしょうか。

人々はまことに千差万別の魂の素質(波調)を持っています。

そのことはもちろん折に触れ申し述べてまいりましたから、もはや皆様には異論が無いことと思います。

その多くの異なった魂にとって、ある共通の判断材料となる精神的な何か、その何かがあるかないかは、とても大きな大切な事ではないでしょうか。

もちろん決して動かすことの出来ないひとつのもの、一つの出来事があったと致しましても、その受け止め方はその魂の資質によることは言うまでもありません。
しかし同じ魂の中にありましても、その時々で変化が伴いますから、同じものを視たり聞いたり致しましても、感じ方はまた異なってくるのです。

その決して動ずることのない共通する何か・・・、それをいま私達は、あなたと共に、このような形で表わしていると思って下さると良いのです。

はっきり申しまして、私達は、「もはやあなたがたは、すべてのことを在るがままに受け入れ、素直に素朴に、また明るく楽しく生きていけばよいのです」 と、まるで現実的な社会からは遊離してしまっているかに見える一つの理念、方向性を示して行こうとしています。

一般的に共通である概念といったものと、一人一人の者にとって個々に必要となってくる、よりきめ細やかな理念との違いは当然あると言えましょう。

あなた方は同じ型で造られた物ではないですし、コンピューターで操られるロボットでもないのですから。

しかし、すべてのものに共通する理念と言いますものは、常に先駆けて成されていくものではないでしょうか。

すべての者に先駆けて何かをしていく、また、人々のまだ発想し得ない理念を掲げてものを言っていく、行動を起こしていくと、いったことの難しさは、今度の白保のことで存分に味わったことでしょう。学びも致しましたでしょう。

人々は初め、その新しい発想について来ることが出来ないばかりか、理解することも出来ません。
しかし行動として現実に動き出し、その結果が少しずつ見えてまいりますと、その通じなかった意味が形として解っていくのです。

そのことは白保の事に限らず、お店 (たべもの村) のこと、かかしの会のこと、給食のこと、その他あなたが成してきた他のあらゆることについて言えましょう。

今在る姿、システムを、行動をおこす前に、いくら言葉で言ってみましても、他の方々は解りませんし、現実に可能となるとは思えないからです。

しかしこのようにして年月が経ってみますと、初めは夢想とも思えました形が、実際に可能であることを知るのです。

いま私達は、とりあえずは、いずれ人々が自分自身で確かめることの出来る、その夢想とも思える方向性、理念の部分をあなたに伝えています。

そうです。いかにもあなたらしい表現となって、このノートの上に現わされているのです。

もちろんその真なるものを理解し得る者は非常に少ないかもしれません。それでも良いのです。いつでも初めはそうだったのです。

そして ”時” がそのことを可能ならしめ、現実化してまいります。
そのことを今私達は言っているのです。いいですね。 

                                  いえす


6--50 生前の選択~受け入れ

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています)★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) 
 

⑥ー50 
12月13日(1988)のチャネル
 
☆☆ チャネル ☆☆

そうです。今あなたがテレビのニュースで見ました、アルメニア地震のことについて少し考えてみると良いのです。

良いでしょうか。今このニュースを見ているあなたと、あのガレキの街、死の町と化してしまった所に生きる人達との関係を考えてみると良いのです。

あなた方にとりましては、人それぞれに受け止め方、感じ方の違いはあるでしょうが、それでもやはり、遠い国、遠い他の地域の人々の出来事でありましょう。

あの時、あの場所に直接居合わせた人々の驚きと恐怖のほどは如何ばかりの事でありましたでしょうか。

最近あなた方のお国では、あの交通機関による惨劇(東中野の電車事故)が起きたばかりでしたが、今日はまた、イギリスでは、そのことをさらに上回る、同じような惨劇が起きてしまいました。

他にも似たような、悲しむべき出来事は数限りなくありますでしょう。それらの事を、ちょっと横に並べて書いてみると良いのです。まさにそれは黙示録の世界であるとは言えないでしょうか。

他にも、この地上には、昨日も今日も、そしてまた明日も、激しい戦火の絶えることない国々が沢山あります。

その事の影響といいますものは、ただ単に、命を失うとか、街が破壊される、といった事だけではすまない、さまざまな問題を次々と生み出しているのです。そのあおりを直接間接に受けながら、人と言いますものは生きてまいります。

そしてその誰もが、明日の命、いえ、この直後さえも、自分がどうなっていくか分からないままに、今日、いま、と言う命を生きていると言えましょう。
みな非常に不安定な心のままに、その日その日を暮らしているとは言えないでしょうか。
その事から人々はいま何を学ぼうとしているのでしょうか。学びの伴わない生と言うものはありません。

人が意識する、しないは関係ないのです。それらはいわば、「孫悟空」のお話のようなものでありましょう。

どれほど「自分は神とは関係ない」いま私達が伝えています「宇宙の仕組みと自分とは関係ない」「輪廻転生などと言ったおかしな話など信じはしない」などど言ってみましても、あなた方がこの大きな宇宙外には決して出ることが出来ないのと同じように、それらの仕組みの外に出る事はできないのです。

すべては、あなた方が自分自身で選びとってきたものばかりなのです。

そうです。誤解を恐れずにはっきりと申しますが、今回のような惨劇に逢うことさえも、そうである(選択したものである)と言えるでしょう。(*人の魂は輪廻のバランス(カルマのバランス)をとるため、産まれ出る前に、身体障害や惨劇を経験する目的で、自らそれらの事象を選択する

それらのものを避ける、あるいは変えることの出来るものが もし あると致しますならば、それは起こり得るすべての事柄を認めていく と言った肯定の思いだけです。

人々が非常に素直になることです。悪あがきをしない事です。さまざまな出来事、現象を否定しないことです。あるがままに生きることです。

 すべての人々が、そのような心になった時、あなた方の住むこの世界は、非常に静かで落ち着いた波動を持った空間と言うものを創り出していることになりましょう。

いつの間にか、破壊や惨劇に繋がる荒々しい波動の世界は消えていくはずです。

話はまことに単純です。話すのも聞くのも簡単なことなのです。

ただ難しいのは、それらをすべて受け入れて行うことなのです。

それが出来るのは、まことに、あなた方一人一人であります。

今日もまた飽きることなく申しましょう。

もやは誰か他の人のせいにする時ではありません。いいですね。

                         あいしています いえす

6--41 超能力者としての自覚

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥ー41  
12月13日(1988)のチャネル
 
(征さん)いま、私の若い友人が、少し迷い始めているようです。多分、彼女の言う何か満たされないと言った事が、私には解るような気がしているのですが・・・

☆☆ チャネル ☆☆

何か満たされない!

そんな気分は、つまりは 「何か絶えず期待していることがある」 と言います事の裏返しであると思います。

そうです、あの方のことに限って言いますならば、いま彼女の持っています、あの不思議な力 (他人の過去世や未来が見える) を、十分に使いこなす、つまりは発揮する場が無いことによるものでしょう。

日々の暮らしの現実的なありようと、実際彼女の上に起きています事柄との間にある大きな落差、つまりはギャップを埋めるようなビックな出来事がないことによると私達は考えています。

おそらくは彼女の場合、今の仕事を辞めても、まだ余りあるほどのヒーリングの世界が起きない限り、その心が充分に満たされることはありますまい。
 
その事は何も彼女だけのことだけではなく、あなた自身についても言えるとは思いませんでしょうか。その期待するものが大きければ大きい程、その心の中には大きな空洞が出来てしまうと言うことです。

しかしあなたの場合は、その日常的な暮らしがそのまま、これら私達の言わんとしています事の体現の場でもあるのですが、彼女の場合はそうではありません。彼女の持っています特異な力と言いますもの自体、まことに非日常的なものであることによるものです。

人が本当にこれらの世界に目覚め、自分にとっての本当の世界が何であるかに気付き始めましたとき、初めて会得、と言いますか納得し得る世界であり、そうでなければ必要のない世界なのです。

ですから、彼女の持っていますその力と現実との間に、大きな落差が生じてしまいます。

これらのことを、いったい彼女は何の為に使おうとしているのか、そのことを良く見極める必要があるでしょう。

そのように特異な力を持ちます者が、他の方々に関わりを持つ場合には、それだけの人間的、あるいは人格的な下地、経験と言いますものが必要でありましょう。

超能力者である以前に、人として様々なる人にどう接触していくことが出来るかと言うことなのです。

良いでしょうか。これらのことは、決して密室でなされるようなことではなく、現実に即したものでなくてはなりません。

さまざまな不思議な力について (征さんのお話)

今と言う時代は、本当に何と言うのでしょうか、一昔前でしたらとても不思議と思われてしまうような能力や出来事が、普通の人達に、なんでもなく起きてしまっているように思います。つまり表現されているということでしょうか。

世の中全体の中で、自己開発セミナーのようなものが、お金さえあれば誰でも受けられ、とても参加しやすくなっていますし、ヨガとか気功、整体、あるいはもっといろんな形で、直接身体と精神に関わります講座ですとか、教室、道場といったものも、その全体の数をつかむことの出来ないほどに増えています。

また、精神的な病を扱います分野でもそれは同じことで、つまり患者さんの心を開かせる為のカウンセリングなどは、まさにそのことではないでしょうか。

そのようにして、いま様々な分野で人間の心と体をうまく一体化させ、開かせようとする時、そこニは何か、言うに言われぬ別なる世界(存在者)からの働きかけといったものがなされていくように思われてなりません。それは本人が自覚するしないにかかわらずなのです。

それに今までの私達の考え方、見方で言いますと、現実的な生活とは全く別なるものであったかのように思われてきたものなのですが、本当はその分野、その世界こそが、人として生きていく為の本質であったのではないかと言うことです。
 

今ここに来て、多くの人達が、これまでの様々な道徳観ですとか倫理観、宗教観といったものから、心の枠を外そうとしています。
その結果、その心、魂の本髄を幾重にも覆っていた被膜のようなものが次々とはがされ、中から様々な隠されていた力、能力といったものが次々と露出されてまいりました。

今までは、不可視の世界、霊なる世界、未知なる世界の存在と同通(コンタクト)出来た人達に対して、何かとても不思議で特別な力を持った特殊な人、といった見方がなされてまいりました。

ですから、そのような人達を、ある時は霊能者、超能力者と呼んだり、地域的種族的には、ノロとかユタ、ツカサ、イタコ、あるいはシャーマン、メディスマン、預言者などと言い、場合によりましては、さまざまな宗教的なものへと発展し、教祖さまになってしまったりもしました。
しかし今の世の中は、いちいちそのように特別扱いしていてられない程たくさんの人達が、何かしら大なり小なり様々な不思議を体験したり、具体的には日常に体現したりもしています。

それこそは、いったい何が不思議で、何が不思議でないのかさっぱり分からないと言った事がとても沢山あると思います。

ほんの一昔前まででしたら、不思議な力、能力を発揮する人達のほとんどは、何か特別な行をしたり、瞑想をしたり等して自分を鍛え、精神を集中させたり高めたりといったテクニックを必要としていました。

しかし今は、自分でも良く分からないうちに、いつの間にかいろんなものを視たり、書いたり話したり、また様々な癒しの力が生まれたりしてきているわけです。
私はたまたまこのような少し変わった本を手掛けてまいりました為に、その本を読んで下さいました沢山の方々の中から、そのような情報、お話を聞かせていただくことがとても多いのです。


~ 初めのうちはとても珍しく、不思議に思うことも多かったのですが、ことここに至りますと、もういちいちそんなことを言っていられません。不思議でもなんでもなくなってきてしまっているのです。

ですから、これらのことは、今までとは違った見方、捉え方をしていかなければ、少し大変なことになってしまうのではないかと思い始めています。

それは何故かと言いますと、そのようなことが自分の身に起こった多くの人達が、「これは何か特別なことであり、特別な使命、簡単に言ってしまえば、世直しとか、救い主的な働きをしなければならないのではないか、その為に自分は生まれてきているのでは・・・・」 と思ってしまうケースがとても多いと言うことです。
 

~  「地球を救う」 とか 「人類を救う」 と言った言い方や発想は、いままでの多くの宗教の中や、大小さまざまなグループの中、あるいは個人的なところでもよく言われてきた事であると思います。

~ 私にも 「大変なお役目、ご苦労様です」 といった手紙がよくまいります。そんな時私は、「ウヒャー、これはたまらん、私はお役目なんかしたくない!」 と本気に思ってしまいます。

人はそんな風に、自分は何か特別な使命、お役目の為に生れてきているのではないか、と思うことで生きる力にもなり、自己満足もし、くすぐりを感じるのかもしれません。

でも今はもうそんな時代ではない、特定の人だけが何か使命を帯びて生まれてくるといった、そんな発想は、とても時代遅れのような気がしてなりません。

そんなことではなく、いま生まれている一人一人が、自分の為、自分の人生をよりよく生きることなのだと思います。


これから先 ≪自分を生きる≫ 自己の人生を素直に、とても良く生きようとする時、いままでのような道徳観ですとか倫理観の上から考えますと、全く非人間的な者、非人間的な自分を見なければならない時もあるのではないかと思います。
自分に正直であろうとすればするほど、他との軋轢やトラブルの渦中に入ってしまいかねないとも思うのです。

他と自分、他と回りとの関係をうまく保とうとすればするだけ、自分と言ったものを押え、嫌な事を取り敢えずやり過ごしていく、といった思いや経験を持った方は沢山いらっしゃることと思います。

円滑な人間関係を保つために、言った方が良いことや、行動を我慢することは良くある話です。
~本当に自分に対して素直に正直に生きるということは難しいことだと思います。


~ ですから、「自分には特別な能力があり、何か使命を持って生まれてきているのでは?」
と思っている人に向かって、「いえいえ、あなたは別に何でもないのです。何もしなくてもいいのです」「あなたはあなた自身を生きていればそれでいいのです」なんて言うのはやはり大変で、それなりに勇気のいる話です。


~ 本当にその人らしい生き方をし、その人の本来の人生を歩き始めた時、自身の中に根付き眠っていた本来の力、本来の姿がしっかりと芽吹き始まり、それがまた、他へも働きかけることの出来る能力、力というものではないでしょうか。

ここで本当に言いたかったことは、今いろいろな人が、自分の中、自分の上に表れてきた、さまざまな現象、能力を使って、人を癒したり人生のアドバイザー的なことをして、それをビジネスにしてお金に換えてしまう、それがいとも簡単になされてしまうことを、なんだかとてもおかしいのではないかと書こうとしていたのですが・・・・・。

~ 自分ですとか他の誰かだけが何か特別といった時代はもう終ったのではないでしょうか。本当に現代(いま)は、生きている一人一人がこの世での      ”主役” なのだと思います。

                              征


6--35 満たされない魂 ~ 悟り

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥ー35 
12月10日(1988)
(征さん)おはようございます。今日は寒い朝ですが、いかにも冬らしくて良いと思います。昨日はインドネシア共和国から独立しようとしている、東ティモールの青年達の話を聞く機会がありました。最後に歌があり、とても良い雰囲気でした。

 ☆☆ チャネル ☆☆

はい、おはようございます。世界は狭くなったとは思いませんでしょうか。このように、地球の上に生きる様々な人達が、その国境を越えてやってまいります。
みなそれぞれに、その生きる地域のさまざまな問題に対して心を痛め、憤りを感じ、なんとか人の心の歓びと安らぎに満ち溢れていくことを希っているのです。

人々はみな、その国らしさ、その地域らしさ、そこに生きた民族らしさを失いたくないし、むしろ活かして強調していきたいと思っているのでしょう。しかし、やはりそうした者の数はまだ少ないと言えましょう。

人が人としての尊厳、その人らしい生き方、それらを自分で選びとるこのと出来る真(まこと)の自由と言いますもの、それらを失った時には、生きることがまことに苦痛となってしまいます。

人が、その心の世界や肉体の世界にありまして、何ものにも縛られることのない自由な心を働かすことの出来ますようにと、いま私達は、あなた方に、このようにして働きかけているのです。

あなた方が、この地上に在る間に身につけてしまいました様々なこだわりと言いますものは、やはり一朝一夕には変えられないのかもしれませんが、それでも私達は、そのことを成してまいります。


(征さん)いま急に、どうしてこんな強い力が加わってきてしまったのですか?
 
☆☆ チャネル ☆☆ 

今日は、あなたにとりましては、一つの区切りの日でもありましょう。
今日よりはまた、新しい出来事に取り組んでまいりたいと思います。
今すぐにはっきりと知ることはないかもしれませんが、すぐに解ります。
良いですか。あなたはもうその事を予知していると私達は知っています。

(注:私のエネルギー、力の変化は、毎月十日頃にやってまいります)

 
⑥ー37  

12月11日(1988)

(征さん)おはようございます。いまふっとテレビを観ていましたら、とてつもなく広大な面積のアマゾンの密林地帯が、焼畑農業の火のあおりを受けて失われてしまったと言うことでした。一昨日は、アルメニア地方で大きな地震があったことを報じていました。地球的な規模の何かが起きている事は確かなことだと思います。

☆☆ チャネル ☆☆

はい、もちろんそうです。

このようにして、いま、あなたがたの棲む地球は、大きく変化していこうとしています。
しかしあなた方人々は、すぐ目の前にある問題にしか判断の基準を置こうとしていないのです。

人は先ず、自分、あるいはその地域に住む人々にとってどうであるか、といったような小さなことにしか関心を持たない、と言っても良いのではないでしょうか。その前にありましては、グローバルな話は、とてもしにくいのです。
 しかし、ごらんのように。いま起きています出来事は、あなた方人々のみならず、この地上に棲む、ありとあらゆる物を共に巻き込んでしまう悲劇へとつながってしまいます。

それでもあなた方は、そのことの持つ本当の意味を知ることはありますまい。
まあ良いでしょう。

あなた方は、これから先に起きる、ありとあらゆる事がらを良く見ていると良いのです。これまでの常識では考えられもしなかったような事柄が、次々と起きてまいりましょう。

それは、天変地異的な自然現象のようなことばかりではありません。人々の生きる社会そのものの中でも、そのことは同じように起きてまいります。(* リーマンショックを発端とした、米国巨大企業の倒産などは正にその事なのでしょう


(征さん)今日私は、本当に久しぶりに高尾の友人を訪ねました。朝までは全くその気がなかったのに、突然その気になってしまったのです。なんだかとても具合悪そうでした。体の調子もさることながら、おそらくは精神的に元気を出せずにいるという気がしました。
☆☆ チャネル ☆☆

はい、あなたが今日彼女を訪ねたのは本当に良いことでした。あの人があんなに喜ぶとは、あなたは思っていなかったでしょう。

彼女にとって、日々の生活の中で、物的に満たされていないものは、おそらくは無いのです。しかし、なぜだか分からない空しさが、日常的につきまとっているのだろうと思います。

それは体の調子から来ると言いますよりは、はっきり言いまして、魂の上で満たされていない事によるものと言えましょう。
 いま、あなた方の社会には、そのような方々が、ぐんと増えていくとは思いませんか?

さて、あなたの友達のことですが、久し振りにあなたに逢い、本当に自分が求めていたものが何であるかに気付き始めています。

生きることが何であるのかを、知りたいと思うでしょう。

きっと、この大きな宇宙の中にあって、自分もまた生きる目的があると言うことを知ることになるのです。

そう、今日彼女が、何回も何回も言っていましたように、彼女の娘さんから、ただ何気なく 「おかあさん」 と言ってもらう、その対象の為だけであってもいいのだ、と言うことに思い当たったのです。
そのことが、彼女にとっては何ものにも代えがたい、素晴らしい悟りの境地でありましたでしょう。

それはまた、つい先日、私があなたにお話し致しました、あの 「一椀のミルク」 のぬくもりにも似た、なにげなく優しいものであったことでしょう。
彼女はその時、その素晴らしい境地の中から自分を引き離したくないと思い、その時のことを誰彼となく話したいと願ったのです。その思いが私には良くわかります。

今日あなたは、その思いをよく受け止めて下さって、本当に 「ありがとう」 と私達からもお礼を申しましょう。

                   さあ今日は私、仏陀です。

6--28 人間さえいなければ・・・

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥ー28  
12月8日(1988)
 
(征さん)この間ずっと、「すべてのことをあるがままに」 と言いますか、「すべての起き得る現象をそのまま認める」 といった感情とは裏腹な想いを感じ続けています。

やはり、この地球に対して、私たち人間のやってきた事柄の大きさ、罪深さを思わずにはいられないのです。私達人間と言いますものが、この自然界に対してやってきてしまったことの何であるかを無視することは出来ないと思うのです。

今日、駒場幼稚園の園長さんや節子さんと話しているうちに、どうしても私はそれらの感情から抜け出すことが出来ませんでした。出来ないどころか、のめり込んでしまうかのよに、泣けて泣けて仕方がありませんでした。悲しいのです。

その日、私は駒場幼稚園で一冊の写真集を見ました。山間の谷をせき止め、ダムが造られてしまうために、やがて水底に沈んでしまう集落の姿を撮ったものでした。その写真を撮ったのは、長年その村に住み続けてきた一人のおばあちゃんでした。
最初のページをめくった時、見開き一杯に、美しい一本の桜の花が満開の写真がありました。はっと息を呑むような美しさです。サッと一陣の風が吹き抜けますと、まるで吹雪のようなその花びらが舞い散ります。そのような情景がとてもよく捉えられていました。
その桜の木にとって、これが最後の春だったとのことでした。その写真を見ていますと、ただわけもなく、あとからあとから涙が溢れてしまいました。それは悲しいと言った感情を越えたものだったように思えます。

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▲飛鳥山の桜

☆ チャネル ☆

はい、すべての事柄の根底には、今のあなたの感情のようなものがあってしかるべきです。
人が人としてそれらの事を想い悲しむのは、当たり前のことです。そこまで冷静になりなさいとは私達も申しません。

前にも申しましたように、もしこの自然環境の中にあなた方 「人」 と言いますものの存在が無かったと致しましたら、この地上は、どれほど豊かな平和が保たれてまいりましたことか・・・・。静かな平和が満ち溢れていたに違いありません。

しかし神なる存在は、このようにして、あなた方 「人」 と言います存在をこの地上に置かれたのです。
あなた方人々も共にこの地上のものでありますようにと、その肉体が形づくられていったことは言うまでもありません。

今人々は、これら地上におきまして、その持てる思考の限りをつくし、科学文明の極みにまで到達したかに見えてはいますが、まことのそれは、このような一方的なものではないのです。

すべては神の摂理、宇宙の摂理を良く活かし、決して人間だけの世界ではなく、共に生きるありとあらゆる他の生物、存在するあらゆるものが、人と共に良く活かされ、よく生きることの出来る工夫がなされていくものでありましょう。

すべてのものは、活かされるためにこそ良く利用されていく、と言ったことがなされていくはずなのですが、人類は、まだ非常に高度な玩具を与えられた、生意気盛りの少年期のようなものです。

そうです、自分のしでかしたことの後始末をきちんとするだけのものが備わっていないと言ったらよいのでしょうか。

でも、それらのことに気付き、怒り、あるいは哀しむ心を持った者も随分多くあります。それらは何時でも裏腹の関係にあると言うことなのです。
片方にそのような事柄が起き、片方にまた気付きがあると言うことです。


(征さん)人間同士はもちろんお互いそのようなことを通して学ぶからいいとしましても、割り切って考えられないのが、そうした私達人間の犠牲になっていく自然界のありとあらゆる生き物達のことなのです。

☆ チャネル ☆

それではどうしたら良いと思いますか?

あなたがた人々の学びの為に犠牲となって滅びていく、この自然界にあるさまざまなる種(しゅ)のことを・・・・。どう考えていったら良いでしょうか。

はじめに私イエスが言った「人間が居さえしなければ・・・」、それだけではもちろん答えになりませんし、何の解決にもならないわけです。実際あなた方人間は存在しているのですから・・・・

それとも他の生き物と共に、この地球と一緒に滅びてしまえばいいと思うでしょうか。いいえ、そうではありません。

あなた方が滅びると言うことは決してないのです。あなた方は絶えず生き続けていく存在であります。(*人間の本質=魂は、何回も肉体を脱皮しながら生き続ける!) 

いま私達がここで求めていますことは、そこのところの考え方の飛躍のことなのです。
さもなくばあなた方は、絶えずその道徳的な、人道的な思考の中で、いつまでたっても堂々巡りをしては出口を見失っていないでしょうか。

あなた方がどれほど誠意を尽くし、力を尽くし、人々の心を正そうと頑張ってみたところで、これだけ頑固で、これだけ多くの地上の人々全てを、聖者的な世界へ変換させたり、引き戻したりすることは出来ない事です。

あなた方は今、全く別なる考え、思考、概念といいますものを身につけた方がいいのではないでしょうか。ですから私達はしつこく申し上げているのです。

今までのような善悪の概念のままでは、何の解決も得られはしませんよ と言うことなのです。


いま私達は、あなたの中において、”るしえる” という名を神の位置にまで引き上げてまいりました。
あなたが今日涙してやまなかったネガティブなその世界を司る者としての  るしえる  の名を、私達はもはやすでに、神のいま一つの姿であったとあなたの前によく顕してきたのではありませんか。

あなたが涙し、また人々が憤りもするこれらの悪しき世界、現象こそが、いま一つの神なるものの世界そのものであると言うことなのです。

そのことを伝えます為に、今このようにして、私達とあなたとの交信が始められたと知る必要がありましょう。それがまたあなたのライフワークと言うものです。

泣きたかったら、どうぞ存分にお泣きなさい。
私達はいま、絵空事を話しているのではありません。

人々が全て、これらの出来事の本当の目的、仕組と言いますものを知ること以外に、これらの破壊と殺戮の世界から抜け出すことはありますまい。

あなたがこうして日々失われていく様々なる種のさまや、切りさいなまれていくこの地形の姿を泣いて哀しむ姿を見ていますと、一日も早く、人々がまことのことを良く知って下さいますようにと強く願わざるを得ないわけです。

私達は以前に申し上げませんでしたでしょうか。これから私たちによってなされようとしています事柄は、かつての時代、あのガリレオ・ガリレイが命をかけてまで人々の前に訴えてやまなかった、地動説の比ではないと言います事を・・・・。
 

いま私達が共になそうとしています事柄は、まだヨチヨチ歩きの幼子が、屈強なレスラーを倒そうとする例えにも似ていると言えましょう。
そのことを私達は十数年も前に、すでにあなたには伝えてあるはずなのです。そのことを、今こそあなたは思い出してみるべき時でありましょう。

何も恐れることはありません。いつかは必ずや暁の時がまいります。

この地上に於いてなされてまいりました、これらさまざまなる相対の世界、その世界に生きたあなた方人々、もう充分にそのことは学びつくしたと私達は考えます。

いつまでも、れら双つに色分けされた相対の世界にしがみついていないで、もっと自由になってほしいと思います。

そうでなかったら、あなた方人々はこれから先、まだどれほどの時の流れを費やして、人々を道徳的な、いえ、非常に人間的な善の道に引き戻そうとすることになることでしょうか。

いま、あなたや、あなたに繋がります僅かな人々は、この世のこれらの仕組みといいますものを少しずつ理解し、自分のものにしつつあると思います。このことは、実に多くの者に先駆けてなされている事柄であります。

あなた方の時の計り方で見ますならば、まだひと時代やそこら、かかるかもしれません。しかし、ことは既に始められてしまっているのです。

良いですか? 
私達の今まで申し上げましたことがら、良く理解され、伝わりましたでしょうか。
あなたのところで、このようにぐらついていては困りましょう。

この通り、私達はすでに何時でもあなた自身であるかのようにそばに在る者です。

このようにして、あなたの手を通して言葉を顕していることに、もう少し自信を持ってほしいと思います。

人として涙もろいあなたは良い人です。しかし今はそこを通り抜けていくときです。

まことの歓びの日のためにこそ・・・・・・

             あいしていますよ  いえす そしてみんなより

6--18 愛について

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥ー18   
12月6日(1988)

(征さん)おはようございます。よく休みました。今朝はとても良い気分です。

昨日私は久しぶりに例の 「なまけ者の悟り方」 と言う本を拾い読みしてみました。初めて読んだ時にはとても簡単で、すっきりと頭に入ってきましたのに、今度はなんだか全然入ってこないのです。むしろ読み続けるのが大変でした。

☆ チャネル ☆

はい、そうかもしれません。
つまり、あの本の中身と、この私達の話とはとても良く似ていると言っても良いのですが、あなたの言い回しと彼のそれとが異なったものとなってしまっているからなのです。

あなたのもの、つまり私達とのチャネルは、前から度々申していますように、あなたの思考回路を使った、あなたの言い回し、あなたの表現法であるということです。

あなたのものは全て生活に即した具体的な形、表現法になっていますから、たとえどのような方が読むと致しましても、非常に分かりやすくなっているのです。少し親切すぎる位です。

このようなチャネルのなされる以前のあなたは、いかなる物を読もうとも、それなりの解釈、判断をしてまいりました。
これらのことに関しましては、すでに自分の中にある理解、認識の方が優先されてまいりますので、他の表現方法がその表面を素通りしてしまうといいますか、すべっていってしまうのでしょう。

あの本の中にあります小見出し的なテーマを、あなたなりの表現方法で書いてまいりますならば、まったく異なった表現のものになるはずです。
 
たとえば、昨日あなたが読んでいましたのは、多くの人々の波動、つまりバイブレーションの違いといったところであったと思います。

人それぞれに異なったバイブレーション、それを彼の場合、はっきりと ”高い、低い” といった言葉で表現しています。言い換えれば、高次元のものと低次元のものといったことです。

その魂の本質に於いて、すべては一つのものであり、早い遅いの時間的な差はあるに致しましても、いずれ人はみな、元なる最も高い次元のバイブレーションのもとに回帰なされていくわけですが、その過程の中でなされる人と人との関わりのさまが話されているわけです。

この地上に生きると言います事の目的は、そのこと以外の何物でもないのです。
絶えず人は自分と異なったバイブレーションを持つ者同士の関わりの中で生きるように仕組まれているのですから、同じ波調の者同士が一緒に居るとは限りません。
 

あなた方は、自分が持っている肉体を離れさえ致しますならば、即その世界(波動の世界)なのです。
しかし、それでは魂にとりまして必要な ”変化” と言いますものが得られませんから、その必要に応じてこの地上の人として生まれているということです。

さまざまに異なった波動の世界で、人はいかようにも影響を受けあいます。その受ける影響が、必ずしも良いものばかりでないことは事実です。ですから、そのことのかわし方について彼は述べているわけです。
彼は彼なりの表現を使っていると言うことです。

ただ私達不可視の存在 は、あなた が、他の物を読んだり聞いたりすることを通して、新たに出てくる疑問、あるいはテーマと言ったものにつきましては、とても大切にしたいと考えているのです。
そのことを通して私たちなりの視点と言いますものを伝えることが出来るからなのです。

もちろんそれは、あなたの感覚のものだけではなく、全ての人にとってのさまざまなる疑問でありテーマであって良いわけです。
どのような些細な事でありましょうとも、その事がその時々のその人の生を左右するものであることに変わりはありません。
絶えず人はさまざまに思考しながら、その判断を自分以外の人、または自分の中に求めていると言えるでしょう。そうした中で、その人の生きるすべての行動が生まれてまいります。


また、いまひとつ貴女が心のうちで引っかかった言葉があります。

それは ”愛” という言葉です。

彼もまた、この私イエスの教えのごとく、その根本原理として、全ての根底に ”愛” というテーマを置き、示しているということです。

ところが今のあなたの場合は、その ”愛” と言うテーマさえも、もはや越えてしまっているということです。もちろんそれは ”愛” が要らないと言っているのではありません。
愛という言葉で表現し、あなた方に教えてきた教義と言いますのは、それが非常に分かりやすかったからです。

今まで私達はずいぶん長い間、この ”愛” と言う言葉をテーマに、いろいろと考え、行ってまいりました。
愛の心を持って全ての人々に接しなさい
これは、私イエスの教えの一大テーマでありました。


最近では、自分以外の者を愛すると言うことは、まずは ”自分を愛する” ことから始まるのです、といった言い方が主流をなしてまいりました。

自分を愛せない者に、なんで他の人を愛することが出来ますか?、といった言い方の前で、ずいぶん戸惑う人たちも多くありましょう。何故なら、今までは、まず自分のことよりも人の為に何かをする、尽くすといったことが、善き人の行いであると見られてまいりました。そのような時代が長く続いてきたと言えるのです。

つまり今までの教えは、人々に対し、犠牲、あるいは奉仕の精神で生きることを勧めてまいりました。

アッシジにおけるフランシスコの時代はまさに、そのような考え方の頂点であったとも言えましょう。それにはまたそれなりの理由と必要性があったと言うことです。

つまり、そのような行為、教えの中で、多くの事柄を学ぶ必要のあった時代であったと言えるのですが、この件につきましてはいま少し詳しく述べることに致しましょう。しかし今はその時ではありません。

今は、一つの流れとして、そのような考え方の時代があったことを言いたいのです。

己を犠牲にすることをむしろ歓びとする精神をいやが上にも求め、育て上げていった時代でもありました。それが無償の愛、慈悲であるとしたのでした。
ですから人々は愛ある行いをすることに大変な勇気を必要とした時代でもありましたし、それがまた一つの名誉をともなってまいりました。

何気なく 「隣人を愛する、救う、授ける」 と言った行為も同時にありましたし、そのような行為はむしろ人に知られることなく、ひっそりと隠れてなされるべきである、と言った教義も生まれていきました。

ひそかに、何気なくそのような愛の行いをする、奉仕の心を表すと言います事は、何よりの美徳であり、神の嘉(よみ)されるところであると人々は考え、私達もまた、そのように人々に教えてもまいりました。


ところが最近では、まずは『自分を良く識り、良く愛し、大切になさい』といった言い方が流行り出したと言いますか、良く言われるようになりました。
自分を良く識り愛せなかったら、とても他人(ひと)など愛することは出来ませんよ、と言うのが最近の傾向であると言えましょう。
もちろんそれはその通りのことなのです。ただ偽善的に人を愛し奉仕すると言うことでなく・・・・ちょっと言い過ぎでしょうか?

でも、とかく奉仕者にはそのような姿の者が多いことは事実でありましょう。

まず  「自分とは何であるか?」 と言う己への問いかけ、つまりは、自分とは?、人間とは?、と言った事でもありましょう。

自分につながる多くの人々、そしてその多くの人間と関わってくるこの大地、自然界とは・・・・と深く広く考えていったとき、その中の大切な一員である自分へと思考は戻ってまいります。

まず自分を大切にし、自分を愛する (善いことも悪いことも含めて) と言います事は、また他なる人々をも愛することが出来ると言うことです。
言い換えますなら、自分を認め、他人(ひと)を認め、自分を許し、他人(ひと)のことももちろん許していける自分になる、と言うことでありましょう。

こうしたことは、言葉を駆使して理屈でわかることではなく、何かの拍子にひょいと実感としてわかると言うことでありましょう。

人はむしろ 「自分を愛する」 と言った言い方よりは、「人を愛しなさい」 といった言われ方が、ずっと簡単でやさしく感じるのではないでしょうか。

愛するとは ”認める” ということなのです。

自分を認め、また相手も認めていく、その行為が、つまりは ”愛” というものでありましょう。
あなたの中には、むしろこの ”認める” といった結語の方が先に入ってきてしまっているのです。

”愛” という言葉には、さまざまな表現がありましょうし、その言葉の響きから人々が感じる世界も異なりも致しましょう。

私達は、あなたが今までの生活の中で、愛という言葉をうまく素直に使えずにいることを知っています。あなたの中ではいつもこの言葉は浮き上がっているのです。

ですから、私達がよくサインの前に使います 「あいしています」 と言ったあの言葉、そのことに慣れるのにしばらくかかりました。出来たら 「書きたくない!」 と抵抗さえ致しました。

でもそれを認めたのは、それが心からの親しみを込めた、全く個人的な愛であると知ったからなのではないでしょうか。

その意味で、あなたは言葉に非常にこだわりを持つ人間であると私達はみています。
あなたのこだわりは、他にも多くあります。
誰かが一つの新しい言葉、新しい言い回しのようなものを致しますと、もう誰彼かまわず無節操に使われていくといった傾向があります。
そして他人(ひと)の作ったコピーで簡単に用を済ませてしまう、そのようなあり方に対しての抵抗のようなものが、あなたには強く働いているのではないでしょうか。

それは大切なことです。安易に使って良いとは思いません。ですから、これから先は尚更に、これらのことは大切にしていきたいと思います。


さて、話はだいぶ横道にそれたかに見えますが、そうでもないのです。

私達は、あなた自身がこの ”愛” といった言葉に対して、どのような認識を持っているかをはっきりさせた上で、次なることへと進みたいと思ったのです。

この話の発端は、「なまけ者の悟り方」 の中で、著者ゴラス氏が 「バイブレーションのレベルを上げ、愛を広げていくことが、より良い方向への変化をもたらす唯一の方法です」 と定義づけていることに対してのあなたの感情をまな板に乗せてみたのでした。

いまあなたは徐々に、と言いますか、すでにそのような言葉の世界からさえ抜け出ようとしていると言うことなのです。

いずれは何も要らなくなりましょう。人々はただ感じていくだけになるのです。それなのに、今あなたは執拗に私達の言葉をこのように書きとめ続けているのです。

本当は、これは私達の言葉ではないのですよ。私達の感じ、思考なのです。それをあなたが、あなたの思考回路の中で ”文字” に変換しているのです。

非常に精妙なコンピューターのような役割であると考えて下さると良いでしょう。ひとまずは休むといたしますか?また私達は言いましょう、

           あいしています・・・とね。 いえす

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*征さんの注釈*

私は自分が ”愛” と言う言葉について、本当はどう思っているのか考えてみました。そして思いついたのは、私にとっての愛とは 「好き」 ってことなのです。  多分好き嫌いの好きなのです。

たとえば恋の対象としての好きもあるでしょうし、あの人が好き、この人が好き、あれが好き、これが好きと、人に対しても、他の物事、それから食べもの、自然界のあらゆることがらに対して感じる好きってことの感情なのです。

本当に好き!大好き!!って思いです。そしてそれ以外のことでい言えば、おっしゃるように、ただ ”認める” って事なのだと思います。

ですから私は、ほとんどこの ”愛” って言葉を使わないのです。
どのような場面に使うにしても、私はなんだか馴染まず、どこかよそよそしく、はっきり言ってしまえば、キザっぽく感じられてしまいます。

でも、サインの前の 「あいしています」 は好きです。特に るしえる のサインの前の言葉は面白くて好きだな ~ と思っているのです。だんだん慣れてきたってことでしょうか。

私ももっと気楽に、いろんな人への手紙に 「あいしていますよ」 って書けたらいいと思うことがあります。いえ、実際つい書いてしまいそうになる時があります。
そのような時には、むしろ書かないで済ませると言ったことに抵抗が働いてしまうのです。なんとなく習性となってしまっているんだな ~ と思います。

6--17 肉体の不便さ

⑥ー17 
12月5日(1988年)のチャネル


(征さん)今夜からまた新しいノートになりましたので、ちょっと御挨拶・・・と思いました。
 

☆ チャネル ☆

それはどうもご丁寧なことです。本当はとても 眠いのでしょうに・・・。

肉の身を持つと言います事は、まことに不便なことです。そのようなさまざまな制限を絶えず受けていかなければなりません

あなたの体は他の人よりはずっと軽くなっていますが、私達とのこのような交信の為に、いまはある種のバランスを崩していることも否めません。
しかし全ては正常に働いています。眠い時は良くお休みなさい。
明日また時間がとれましたら、充分にお話致しましょう。

あなたはまた、いささか自信を失いかけていますから、そのことについても少しお話する必要がありますでしょう。何故そうなってしまったかと言うことです。

これらのノートを公開すると言いますことは、やはりいずれの時にか、当然なされてまいりますでしょう。
あなたの上にいま現わされていますこれらのことは、全く個人的なことばかりではあるとは言えないのです。
他の人々にとっての大切な視点が多く示されていますことは、あなた自身が一番良く知っておりますでしょう。

これらチャネル的な事は、本来すべての人々の上に同じようになされるべき行為ではありますけど、今はまだその時には至っておりません。何故なら、まだ人々の意識と言いますか、肉体的条件なども、そのように良く整っていないからなのです。

しかし、これらのものを読み、識ることによりまして、多くの方々の中に準備が整うと言うことでありましょう。良いでしょうか。

さあ、今日は休むことに致しましょう。

                あいしています いえす

6--3 吹く風もまた私である

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑥ー3 
1992年6月3日
第6巻 「吹く風もまた私である」 ≪まえがき≫
前の本(5巻目)を出しましてから、ずいぶん長い時が経ってしまいました。

その間には、それこそ国際的な、地球的な規模で、目を見張るような大きな変化がこの地上のあちこちに起きました。なかでも、世界の勢力を二分していた大国、ソビエト連邦共和国の崩壊などは、その筆頭ではないかと思います。

ほんの少し前まで、そんなことが現実に起き得る等、一体誰が考えたでしょうか。しかし、これは確かな現実となり、ニュースとなって私達の茶の間に飛び込んでまいりました。

そして、いまひとつの大国アメリカでさえも、この先一体どのような事になってしまうか分からないのです。

本当に今、世界は、地球は、そして私たち人間社会、人類の歴史は、とても大きく変わろうとしています。まことにもって、私達の前にあります現実とは、絶えず変化し続けるものであるということを身をもって知る時代になりました。しかも、現代はとても速いスピードでそれはなされているということです。
 

この先いったい何がどうなっていくのか、どのような現実が押し寄せて来ようとしているのか、正確に予測し、言い当てることの出来る人は、なかなかに居ないのではないかと思います。

そのような時代であればこそ、人は何か本当に確かなもの、しっかりと手応えのあるものを、それぞれ無意識のうちに探し求めているのではないでしょうか。そのような時であるからこそ、これまで歴史の中のそこかしこで度々言われてまいりました、様々な未来に対する予言といったものが、人々の脳裡をかすめるものであるとも思います。

本当に長い間、この二十世紀、今世紀末こそは「世の終末の時代である」と言われ続けてきたのですから・・・・。


さて私は今から三年ほど前に、一冊目の本【光と影のやさしいお話】を出しました。それ以後、合計五冊の本を次々と形にしてまいりました。全くの自費出版であり、直接手渡し (発送も含め) していくといった形を通してまいりましたので、この本がどのようはルートで、どのような人たちの元に届けられ、読まれているのかといった流れを、私自身ある程度掴むことが出来てきたように思っています。

この五冊の本を通して知り合いになりました人々の数は、それこそどれほどのものになりますか・・・・。もちろんただ行きずりのような方々もいますし、それこそ百年の知己、いえ、おそらく何回も何回も、過去世と言われるものの頃からの繋がりがあったと思われるほど、深く密にお付き合いすることになってしまった方々も随分と多くあります。(ちなみに、私=ブログ管理者は、勤務会社近くの図書館の「交換本コーナー」で山田さんの本に出会いました) 

そしていつも思うことは、「一体これから先、私達はどのような事になっていくのだろうか?」と言うことです。


さて、話は変わりますが、これらの本を通して繋がってまいりました沢山の方々のありようが、この本を出した初めの頃と今では、すっかり変わってしまったように思います。それはとても面白い現実であると思うのです。

初めの頃は、いわばこのような話を何か 神さま と言うのでしょうか、『天から降ろされたメッセージ集』といったように思い、捉えていた人達がとても多かったのですが (つまり自分にはない、他人事のように)、今ではそのことは、いつでも自分に起き得る、あるいはすでに起きてしまっている、非常に身近で現実的なものとして捉えることの出来る人達に置き変わってしまっています。もちろん全体的な印象ですが・・・・。

ことに、最近お手紙をいただいたり、お目にかかることになった方々の多くが、実際に地球外の存在と、さまざまにコンタクトをとると言いますか、情報を得ることが出来るようになった人達であると言っても過言ではありません。まあ、そこまではいかなくても、何かしらさまざまな力、エネルギーを感じ取ることが出来たり、予知夢を見たりと様々です。
ほんの数年ほど前までは、これほどの事はあまり考えられない事だったと私は思います。少なくとも、エドガー・ケーシーの頃には絶対にそうでしたし、十数年前の私の娘達の頃にもまだそのことは珍しいことであり、人に話してもなかなか通じない世界のものでした。
やはり何と言いましても、あのアメリカの女優シャーリー・マクレーンの書いた一連の作品は、世界的にどれほど多くの人々を刺激し、目覚めさせていったか分らないと思いますし、それ以後のいくつかの宇宙意識との交流による情報といったもの、あるいは様々なセミナーといったものが、それこそ今では無数と言って良いほどの数の人々をゆり覚まし、ゆり動かしてきたのではないでしょうか。

世の中の流れは、いま本当に、とても大きく変わったのだと思います。
もう誰もこうしたこと、つまり不可視の様々な世界や存在の事を否定することの出来ない時代が、すぐそこまでやって来ていると思います。
何せ、ごくありふれた都市の中で、ごく普通に生活している私などがこのような本を次々と出し、沢山の方々に読んでいただいているのですから・・・・。
そして、そのことは否定されるどころか、とても信じられないほどの肯定、納得と共感を得てしまっているのです。もちろんそれは、この日本の中のごく一部の方々との交流でしかありませんけれど、その背後に広がる多くの人達の確かな手応えといったものは否定できなことなのです。
 その上で、今また私は、次なるものを(本)を皆様の前にお届けしようとしています。

今度紹介します(チャネル)ノートの中味は、ナンバー11と12で、私のノートの中では初期のものばかりです。話の中身は前のものとあまり大きな隔たりはありませんが、いま一度復習のつもりでお読みいただければ幸いでございます。

この二冊(11・12)のノートを書いた頃と今では、私の状態や物事の考え方、捉え方はだいぶ変わってしまっています。決して同じということはありません。ですから、そのあたりの時間差、ギャップを多少埋める意味で、それ以後のノートの一部や出来事を少しまとめ、書いてみました。

とりあえずは読んでいただきまして、皆様の中でどのような判断と受け取り方がなされていくのか、そのあたりはすっかりお任せするしかないと思っています。

人と致しましては本当に未熟な者の書いた文章ですので、そのあたりは差し引きされた上で・・・・とお願い致します。

また、いつものことですが、これらのことはすべて信ずるもよし、信ぜざるもよしの世界のことでございます、と申し上げておきたいと思います。

                              山田 征

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

5--257 神の概念を変える

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑤ー257  
12月5日(1988)のチャネル

(征さん)おはようございます。今すぐに出掛けなくてはなりませんのに、なんとなくペンをとりました。
 ☆☆ チャネル ☆☆

はいおはよう。私はるしえる。
私は今しばしそなたに語りたきことありと働きかけしものなり。先程のデンワにて私の名が語られたるにより、私は久しぶりにそなたに語ろうと思った。
しかし今はよい。まことに今はまだその時にあらず。のちほど、いましばらく多き時とりて語るといたそう。
寒きこと日々増したるにより、そなた、まことに気をつけて行かれよ。

                愛ある波動をそなたに  るしえる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (征さん)少しは時間があります。

☆☆ チャネル ☆☆

それでは良いであろうか。
私は前にも述べたるがごとく、今までは、るしえる と言いたる名を使いて、そなた達に語りかけしも、世にありては悪しき者の代名詞として扱われもしてきたものにてある。

しかしながら、その名、まことに知りたる者ばかりにてはあらず。先程の者のごとく、まずは我が名の由来そのものから語らずば、何事も伝わざりし者もまた多くあり。
そのこと、これより先はひとつの課題とはなりたるものなり。


世にはこの”るしえる”と言いたる名、まことに馴染みある者となき者があるにより、よく伝わりたる者、伝わざりし者に分かれゆきてあるも致し方なし。

そなたにありては、我が名まことによく馴染みたるにより、そのこといささかも気を使いたることなきものにてあるも、他の者にありてはさにあらず。まずはそのことこそは伝えたきことにてあり。

私はそなたのうちにありてこそ、我が名 世に広めたることなせり。
まことはこの名なきものにてあるも、人々の前にありては、我らが伝えたき新しき理念こそはこの名使いてよく伝うること可能なり。

その上にて、我ももまた すべからきものと ひとつのものとなりてあり。
そのこと、今までそなたに伝えたるかの詩の数々、その中にてさまざまに伝えてあり。

いまこそはまた新しき詩うたいてみると致す。そなたよ、とく記したまえ。

20150610 008

☆☆☆☆☆

はじめにありて 我はひとつのもの ひとつの力にてあり

その力 ふたつに分かれしとき

そのときこそ 我が名”るしえる”こそは生じたるものにてあり

我は そなたら人なる者 創りたる力なり

この力なくば 世に在るあまたなるもの 
形あるもの生ぜしことあたわざるなり

我が名 我は使いて この大蒼駆けめぐりたるものにてあり


そなたら人なるもの その心にありては その生きたる姿のうちに 
さまざまなる想い  想念こそは湧きいだせしものなり

その想いこそはまた我が力 我がるしえると言いたる名にてあり


我はまた そなたら人なる者 さまざまなる想い

想念こそは 司りたる者にてあり

我こそはそなたら人なる者 

その胸のうち深く宿りたる素晴らしき力なり


そなたら人なる者 さまざまに思考といいたるものをなせり

そのなせりし思考といいたるもの それこそは

またいまひとつの我が名 我が力なり

私はるしえると名乗りたるも 

まことはすべからき力統べたる者 神なると知れ


そなたらの思考と言いたるその力こそは また我が力なり

そなたら 何ごともよく思考致せしものなるも

その形 動きなきもの すべからく 我がいまひとつの力なると知れ

その形なく動きなきものに力与えたるは すべからき我が名るしえると知れ


我はまた ふたつの姿現わしたる者にてあり

まことはひとつのもの ひとつの姿なるも

そなたら 神なるもの 神なる世界をよく知りたるためにこそ

かようにふたつの姿 現わしたるものにてあり


これらのこと 我はそなたらの前にありて ひとつのドラマとはなせり

ひとつの物語として語りたるにより 人々 よく知るところのものとはなしたるなり

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そうです。今朝ほどあなたは、かの女性と話しました時に、まずは”るしえる”の名の由来から話さなくてはなりませんでした。
そのことは彼女に限らず、今までも度々ありましたし、これからはさらに多く生じてまいりましょう。

そのことにつきましては、今までに幾度となく話してまいりましたので、いまさらここで話すまでもない事ですが、今朝ほどの彼女の質問は、まことにはっきりとこのことを象徴していたと思われましたので、さっそく論議に及んだというわけです。
これからは、さらに多くの説明を加えていく必要が生じてまいりましょう。

本当は、このような名前を使わずにこれらの世界を説明していくことは十分可能な事でありますし、あなたももちろん、そのことはよく承知していることでしょう。

私達はいま、すでにこのような仕組みのもとに、これらの話をとても分かり易くしてきたつもりでいます。

もちろんこの”るしえる”といいます呼び名は、まことに一般的ではありませんが、むしろこれらのノートを通して一般化していくことになりましょう。

人々は、今までは、いわゆるキリスト教的な教養の中でのみ知ることの多かったこの名を、もっと広い立場で知ることになり、口にするようになろうとしているのです。


しかしそのことは、あなた自身よく承知していますように、一時的なものでありましょう。いわば、まことに便宜的に使われていくものであると言えるのです。

そのことを良く承知の上で、あえて私達は、今しつこくこの名を使っているのです。

つまりは、まことに普遍的な存在である神なるものの概念そのものを変えていこうとしていると言うことです。
これはとても大変な出来事であると言えるのです。

人々は今まで、その神と言われます存在を、非常に狭く一面的にしか捉えてきてはいなかったのです。今まではもちろんそれで良かったのです。
人々はまことに神のもとにひれ伏す者でありました。そのようにして、人々はこの長い歴史の中で育まれてきたと言えましょう。

ですから人々は、神を祀るといった行為のもとに、寺社仏閣を営々として築いてもまいりました。そのことがまた、あなた方の歴史の中では、ひとつの建築文化をも築いてきたと言えるのです。


神を一面的にしか捉える事が出来なかった故に、そのような構築物の内にこそ、神や仏を住まわせもし、閉じ込めてもまいりました。

そうです。まことは神なるものの姿をそのように規定し、限定していかなければ、人なるものの思考は、神なる存在、エネルギーを捕まえることは出来なかったのです。

今はもはやそのような時ではありません。
すべてのことがらは、まことに科学的に、クールに説明する事が出来ますし、またそのように受け止める者の数も多くなってきているのです。

いわゆる神そのものの概念こそが、いまこそ大きく変わろうとしている時であると言えましょう。


しかし何も恐れることはありません。
昔も今も、つまりは今まであなた方が神と呼んでまいりました力や姿が変わってしまったり、失くなってしまったりするわけではないのですから、その果てしなく大いなる力、エネルギーこそは、まずますその力を増し、あなたがた人々の上に、その本来の姿を顕しつつあると言うことです。

そのことが、今回このノートを表わしていますことの目的であると言えるのです。よいですね。

                 あいしています  いえす

~~~~~~ ⑤ = 完 ~~~~~~
 

5--252 人間の特性

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています)チャネルのキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) 

⑤ー252
12月4日(1988)のチャネル
 (征さん)おはようございます。忙しい毎日でしたが、今日はゆっくりしています。*娘達もすっかり手がかからなくなりましたし、白保の事も、今のままならば、もう私は良いのでは・・・と思いますので、ふっと思いがけない時間が生まれてくる気が致します。

☆☆ チャネル ☆☆

はい、ずっと以前に私達は、いずれあなたにはさまざまに成すべきこと、やっていくべきことが沢山生じてまいりますと、他の人の口を通して伝えたことがありました。

もともと家族のない人で、持てる時間のすべてをこれらのことに使うことの出来る者もあるのですが、あなたの場合は、初めからそうではありませんでしたので、ここにくるまでに相当な時を要しました。

もちろん、それらはすべて、私達とあなたの間に交わされました約束に基づくものでありますので、何も予想外の事ではありません。

その間に、あなたは人としてのさまざまなる側面を生きてまいりました。そしてあなたが丁度50歳になったのを機に、私達はこれら一連のことを始めることに致しました。
~ 50年も生きてまいりますと、人としてある程度の体験はなされていると言うわけです。

~ あなたも50年と言う年月を生きてまいりましたから、それなりの体験と判断力を持つに至りました。
お子達もそれぞれに育ちました故に、もはや何も心配はいりません。
また、社会的な広がりや、人としての繋がりも多くあります。

全ては良い潮どきと言えましょう。

これからはもっと他のことに、じっくりと取り組んでいくことにしてはどうでしょうか。


⑤ー254

さて、人は人としてどう生きるべきであるかと思い始める人達がいます。人はそのような事を少しも知らなくても、考えなくとも、充分に豊かに生きることは出来るのです。

空を飛ぶ小鳥たちのように、地に生きるさまざまな生き物たちのように、すべてあるがままに生きていきさえすれば、それこそ充分に生を楽しむことは出来ましょう。しかし、それだけでは決して満たされないと考える人達がいます。

まるで哲学者のように、この世のさまざまなる仕組、出来事、存在のことに思いを巡らして、その答えを見出そうと日夜時を費やす者の数は意外と多いのです。

そのことがまた人間の特性でもありましょう。他の生き物には決して無いものでありますから。

そうです。いまここに私達(天界の人達)が伝えております、これらの事などは正(まさ)に、そのように考え求め始めた者への解答(こたえ)であると言えましょうか。

私達はいまここに、それらの人々の追い求める、いわば宇宙の真理とも言うべきものの答えを用意する事が出来るのです。もちろんそのことは、あなたの持つ語彙の範囲の事となります。

それらのものは、そんなに難しいことではありませんから、あなたの思考範囲、語彙の範囲で十分です。

人それぞれに、想うこと、願うこと、求めることなどは異なるかに見えましょうが、やはり全ては同じことです。それほどの違いはありません。

そのことを共に私達はやってまいりたいと思っています。
しかし、ほとんどのものは、今まで伝えました事の中に在る と私達は見ていますが、それでも、さらなるものを求める方々も出てまいりましょう。

私達は、楽しみにやってまいりたいと思っているのですよ。
 




 

5--249 魂が求めるもの

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!
(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 
チャネルのキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) ーーーー


 ⑤ー249 

12月3日(1988)のチャネルの続き

☆☆ チャネル ☆☆

私達が今このようにして、あなたと共になしていますさまざまな事柄は、すべてこれからの出来ごとに先駆けてなされていると言えるのです。

これから先、あなた方が過ごすことになります時代と言いますものは、これまでの、いわゆる地球的・物質世界的な時間の捉え方、空間の捉え方だけでは十分ではないと言うことです。もっともっと飛躍的に、この宇宙的な視野の中で物事を見ていかなければなりません。

人類は、科学文明の視点で見ますならば、人々の予想もし得ないほどの速度で発達、発展してまいりました。しかし、ほとんどの人々は、自分達の生きていますこの空間で、いったい何がどう科学されているのかを知りません。

あなた方のこの世界は、非常に細分化、分業化されてしまっています。人は全体として、何がどう仕組まれ、どう進展しているかを良く捉えきれてはいないのです。

日々の暮らしの中で、ある日ふと気が付いてみますと、ありとあらゆる事柄が、とんでもない速さで簡略化され、機械化されている様を見ることになります。

それらは、あなた方一人一人の手の内でなされていく事ではありますが、人々はその全体像を見ることが出来ずにいます。見ようともしないと言った方が良いかもしれません。

自分のなしていること、なしている分野といいますものが、全体の中ではどの部分を占めているのか、それが全体に対してどのような影響を及ぼしていくことになるのか?と言ったことにつきましては、全くと言って良いほどに考えが及ばずにいます。つまり、無関心と言うことです。

それらのことは、何も科学の世界だけではなく、人々の生活全般について言えることなのです。その最も大きな影響を受けていますのが、この地球という星全体の持つ、生態系と言うものでありましょう。

人々は、自分達人間の文明社会を、より大きく、より便利に構築することのみに汲々としており、地上での他の生物との関わりのことなどは、ほとんど気付かず忘れ去ってしまっています。

そのように、この地上では、人間同士の間にも、人間と自然形態の間にも、非常に大きな分断がなされています。

それらのことは、あなた方の日々の歴史が進めば進むほどに、さらに大きな亀裂となっていこうとしているのです。そのことが、今あなた方人々の一般的認識の世界であり、現実であると言えましょう。
しかし、そのような世界に、もはや終りを告げる時が来た事を、私達(不可視の人達)は知らせようとしているのです。

分断化、細分化がこれ以上進んでしまわないうちに、全てのものは本来一つのものであった事を知ってほしいと願っているのです。

全てのもの、全ての出来事を、地上的な感覚や視野で見るのではなく、もっとグローバルな目で見ていって欲しいと思っています。
いえ、私達が願っているのではなく、あなた方人々の魂が、そのことを心から求め始めていると言えるでしょう。

ただそのことを、あなた方のこの世的な感覚では、しかと捉えることが出来ずにいます。自分達の魂が、本当は何を求めているのか分らずにいるのです。

そのように、あなた方の肉体と精神は、ほとんど二重構造的な中に在ることに、いずれ気付いてまいりましょう。

今、すべての時は満ちようとしています。

あなた方の目から見ますと、まだまだ不完全であり、不満だらけ、むしろこの長い歴史の中で、精神的にはますます後退さえしているかに見えますこの世界が、実は最後の実りの秋(とき)、魂の高揚の時を迎えているとは、とても信じられないかもしれません。
 

地上的な時間的感覚では、確かにいましばらくの年月を要しはいたします。

しかしその間にあなた方は、おそらくは自分達でも信じられないほどの、人々の心の変化といいますものを、見ていくことになりましょう。時はいま、そのように進みつつあります。

これはあなた方の思考の外の問題であるかもしれませんが、そのことが、この自然、宇宙、大蒼の中で進められています計画であり、摂理というものです。

これら大いなる時代の変わり目、人々の心の変換期にありましては、いつの時代でも、それに先駆けてそのことを示唆し、告げ知らせることがなされてまいりました。
決して、イキナリということではありません。

人々が少しでも早くそのことを知り、その時に備えることが出来ますようにと準備はなされてまいりました。そして今もまた、そのことはなされつつあります。

今このようにして、貴女に告げ知らせていますことも、そのことの一つであることは言うまでもありません。
よいですね。ではまたのちにて。

                          いえす


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