★★山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想)
⑤ー198
11月23日のチャネル
(征さん)おはようございます。昨夜は、はじめ、一体誰と話しているのだろうといった気分でいたのですが、ぶっださん? いったい何て呼んだらいいのか戸惑います。どちらかと言えば、” お釈迦様 ” の方が言いやすい気がしますが・・・・、それにしましても、やはり変な気分でなりません。
こういう世界はまったくおかしな世界だと思います。自分の現実の中に、このような有名人の名前と言いますか、固有名詞を持ちこむと言う事が、なんとも複雑な思いがしてなりません。
ま、ともかく、初めての長い記述でしたから、一体どんなことを書いていたっけ・・・・と、さっと読み返してみた所なのです。
やっぱりお釈迦様はお釈迦様らしいとも思いました。でも、やはり私の良く知っている話をそれらしくまとめて書いたといった気もしないではありません。
そこらへんが、何とも言えない複雑な気分ですね。
☆☆ チャネル ☆☆
はい、おはようございます。
昨夜は話の途中よりそのような事に展開してしまうことになりました。もちろん、まったく予定外のことだったわけではありません。いずれどこかで、私がきちんとお話をする機会を得ようとは思っていましたから、昨夜はそのようなことの、ひとつのきっかけとなりました。
つまり私は、いま多くの人々が、私達の国に於いて一つの悟りのための行としてなされてまいりました、いわゆるヨーガと言います形態をまねる者が多くあることについて話をしていきたかったのです。
今あなた方のお国では、これらのものが、いわば一種の健康保持のための体操に代わるものであったり、御婦人にとりましては美容体操の域でしか捉えられていなかったりなど、さまざまなのです。
もともとこれらのものは、静かに瞑想をこらし、宇宙の意識との一体感を得たときはじめて、ひとつの形、体の動きとして自然に生まれいでたものでありました。
それは、その人の体、その心、精神のおもむきますままに、まことに自由自在になされていく静かな体の動き、呼吸(いき)づかいと言ったものでありました。
人の体には、さまざまなる秘点、いわゆるチャクラと言われる位置があります。それらの場所は、人々が本来持ち合わせておりますさまざまな能力(ちから)の働きのポイントであると言えるのです。
ですから、いわゆるヨーガといいますものを極めようと致します者は、それらの動き以前に、いわゆる呼吸法と言いますものを非常に大切に致します。その呼吸法ひとつで、全てのチャクラを開くと言った、いわば秘儀とも言えることがなし得ることによるものです。
いま私達は、それらのことはすべてあなたの体に自在に現わしていけますようにと働きかけています。そのことは既にあなた自身の体の動き、呼吸のあり方の中で感じとっているのではないでしょうか。
あなたは今、人と致しましては、これらのものを学ぶことは一切ありませんでした。あなた自身では、あの瞑想と言ったようなものでさえ、一体何であるのかを知らないのです。
しかし世間的には、今ほどこれらのものが一般化され、もてはやされている時代はありません。
人々は何事であれ、非常に簡略化し、生活の中に取り入れていくことに長けていると言えましょう。また、その形にはさらに多くの理論と言いますものが重なってまいります。形と理論の上に立って、人は何を得ようとしているのでしょうか。
それが現代と言います世相をよく現わしているのではないでしょうか。
しかし中には、そのような事の中で、ここから真剣に自分を高めようとしている者もありましょう。そして、あるところまで会得していけるものでありましょうが、今となりましてはもはや、そのような事はどうでも良いことであると言わざるを得ません。
つまりは、昨夜もお話致しましたように、悟りとはそのようにして求めていくものではないと言うことです。
ふと差し出された一椀のミルクの中にしみわたる喜びを感じ取り、あるかなきかの風のそよぎの中にも、この大いなる自然の営みを感じることのできます、優しく素朴な心根の中にこそ、すでに悟りの境地と言いますものは所在いたします。
何か今の人々は、全てを形として学び、理論として識ると言いますことの中に、あまりに多くの比重を置きすぎてはいますまいか。
まあそのような意味では、むしろあの聖なるヨーガと言いますものが、ひとつの健康法や美容体操として現代に活かされていますのは、最良のことであると言うべきかもしれません。
おそらく、いまそれらを学ぶ者のほとんどが、かつては(前世で)そのヨーガと言いますものを、悟りへの道として修めたことがあるのでしょう。輪廻は巡るとは、まさしくそのことでありましょうか。
あまり堅苦しく形や理論にとらわれないで、もっと気軽に、あなた方の日常生活の中で悟りの心を得て下さいますようにと申し上げることに致しましょう。
さて、私の呼び名についてのことなのですが、仏陀とは、やはり彼イエスの”キリスト”という言い方と同じで、いわば位名であり、平たく言えば役職名であると言えるのです。
私の俗名シッダールタでは、やはりあまりに馴染みがなさ過ぎますでしょう。
どうでしょう、私はやはり、サインはVではありませんが、サインは”仏陀”でまいりたいと思います。あなたの方は好きなように呼んで下さって良いのですよ。
ノートをこのように半ばで終わらせるのはあまり例がないようですが、私の話はひとまず終わると致します。残りは彼が引き取りますでしょう。
仏陀
★
はい、おはようございます。
昨夜、今日と彼の話が続きましたが、いかがでしたか。
やはり、あなた方日本人にとりましては、彼の感覚、教えと言いますものは、とても深い所で馴染みのあるもののはずですが、しかし今となりましては、このような多くの時代、多くの場所に転生が行われ、人々はあまりその魂の上でも特殊な民族性といいますものを現わしにくくなってきています。
つまりは非常に国際化されてきていると言いますのは、何もこの地球上での交通網や通信網の発達、発展によるものだけではないのです。
ある時は私の魂と共に生き、ある時は彼の魂と共に生きた人々がどれほど多く存在いたしますことか。ただ傾向といいますものは確かにあるのです。
しかし、もはやあなた方は、この地上での国際人と言いますより、宇宙に向けての地球人としての視野で見ていく時に至っているのです。
”地球”と言います星は、宇宙の中の一地域にすぎません。
それでは、またのちほどのことに致しましょう。
いえす
⑤ー203
11月23日のチャネル②
☆☆ チャネル ☆☆
今、あなたが読んだ、かのモーゼに関する数々の記述は如何でしたか?
その頃のことはすべて、今になぞらえる事も出来るのです。それよりもなお多くのことが、今はなされようとしています。そのことのために、いま私達は、どれほど多くの者に働きかけておりますことか。
先程も伝えてありますように、とにかくあなた方には、今まで以上に広い視野と立場に立って物事を見ていっていただきたいと思います。
かの時でさえも、あなた方に関わりました人々の数は数十万にものぼっていたのですから、まして今と言います時、その数はさらなるものとなってまいりましょう。
しかし、今までにも度々述べてありますように、もやはあなた方は自分たち一人一人の力で、この新しい時、新しい時代に向かって歩いて行く者とならなければなりません。
すべてのことは、自分自身の身の内に既に修められているものでありますことに気付く必要がありましょう。
今私達がこのようにして、これらの数々のノートの上に記してまいりました事柄は、いわばそれら新しい時代に向かいます為の手引きの書となってまいりましょう。
かつてのイザヤと言います名は、人々の心の中に『失われた神の名を呼び戻す者』 と言う意味でありました。
今こそは、またそのようにして、失われてしまいつつあります私達不可視なる者の世界、いわば神の領域の世界を、人々の心の中に呼び覚ます時でありましょう。
それを神と言う名で呼びますかどうかは、あなた方一人一人の心の問題であると言えるのです。おそらくは、かつての時のようにはまいりますまい。
いま人々は、まさに自由気ままに、さまざまなる発想を致します。その発想の中で、さまざまなる世界が生まれてまいりましょう。おそらくは神の片鱗さえもない世界観も生じてまいりますでしょう。
それでもよろしいのです。
むしろ人々が、ただ、この世的な世界観だけに捕われていないことの方が大切であると言えましょう。
さあ、あなた方の暮らしでは、もはや日付が変わりましたでしょう。そのようにして下さい。
いえす