無量大数 (山田征さんのチャネリング)

山田征さんのチャネル(1988年から数年)を抜粋編集して紹介

2015年05月

5--198 悟りは求めるものでない

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑤ー198 
11月23日のチャネル
 (征さん)おはようございます。昨夜は、はじめ、一体誰と話しているのだろうといった気分でいたのですが、ぶっださん? いったい何て呼んだらいいのか戸惑います。どちらかと言えば、” お釈迦様 ” の方が言いやすい気がしますが・・・・、それにしましても、やはり変な気分でなりません。

こういう世界はまったくおかしな世界だと思います。自分の現実の中に、このような有名人の名前と言いますか、固有名詞を持ちこむと言う事が、なんとも複雑な思いがしてなりません。

ま、ともかく、初めての長い記述でしたから、一体どんなことを書いていたっけ・・・・と、さっと読み返してみた所なのです。

やっぱりお釈迦様はお釈迦様らしいとも思いました。でも、やはり私の良く知っている話をそれらしくまとめて書いたといった気もしないではありません。

そこらへんが、何とも言えない複雑な気分ですね。

20121219 (11)

☆☆ チャネル ☆☆                          
はい、おはようございます。
昨夜は話の途中よりそのような事に展開してしまうことになりました。
もちろん、まったく予定外のことだったわけではありません。いずれどこかで、私がきちんとお話をする機会を得ようとは思っていましたから、昨夜はそのようなことの、ひとつのきっかけとなりました。

つまり私は、いま多くの人々が、私達の国に於いて一つの悟りのための行としてなされてまいりました、いわゆるヨーガと言います形態をまねる者が多くあることについて話をしていきたかったのです。

今あなた方のお国では、これらのものが、いわば一種の健康保持のための体操に代わるものであったり、御婦人にとりましては美容体操の域でしか捉えられていなかったりなど、さまざまなのです。


もともとこれらのものは、静かに瞑想をこらし、宇宙の意識との一体感を得たときはじめて、ひとつの形、体の動きとして自然に生まれいでたものでありました。

それは、その人の体、その心、精神のおもむきますままに、まことに自由自在になされていく静かな体の動き、呼吸(いき)づかいと言ったものでありました。

人の体には、さまざまなる秘点、いわゆるチャクラと言われる位置があります。それらの場所は、人々が本来持ち合わせておりますさまざまな能力(ちから)の働きのポイントであると言えるのです。

ですから、いわゆるヨーガといいますものを極めようと致します者は、それらの動き以前に、いわゆる呼吸法と言いますものを非常に大切に致します。その呼吸法ひとつで、全てのチャクラを開くと言った、いわば秘儀とも言えることがなし得ることによるものです。

いま私達は、それらのことはすべてあなたの体に自在に現わしていけますようにと働きかけています。そのことは既にあなた自身の体の動き、呼吸のあり方の中で感じとっているのではないでしょうか。

あなたは今、人と致しましては、これらのものを学ぶことは一切ありませんでした。あなた自身では、あの瞑想と言ったようなものでさえ、一体何であるのかを知らないのです。


しかし世間的には、今ほどこれらのものが一般化され、もてはやされている時代はありません。

人々は何事であれ、非常に簡略化し、生活の中に取り入れていくことに長けていると言えましょう。また、その形にはさらに多くの理論と言いますものが重なってまいります。形と理論の上に立って、人は何を得ようとしているのでしょうか。
それが現代と言います世相をよく現わしているのではないでしょうか。

しかし中には、そのような事の中で、ここから真剣に自分を高めようとしている者もありましょう。そして、あるところまで会得していけるものでありましょうが、今となりましてはもはや、そのような事はどうでも良いことであると言わざるを得ません。

つまりは、昨夜もお話致しましたように、悟りとはそのようにして求めていくものではないと言うことです。

ふと差し出された一椀のミルクの中にしみわたる喜びを感じ取り、あるかなきかの風のそよぎの中にも、この大いなる自然の営みを感じることのできます、優しく素朴な心根の中にこそ、すでに悟りの境地と言いますものは所在いたします。

何か今の人々は、全てを形として学び、理論として識ると言いますことの中に、あまりに多くの比重を置きすぎてはいますまいか。

まあそのような意味では、むしろあの聖なるヨーガと言いますものが、ひとつの健康法や美容体操として現代に活かされていますのは、最良のことであると言うべきかもしれません。

おそらく、いまそれらを学ぶ者のほとんどが、かつては(前世で)そのヨーガと言いますものを、悟りへの道として修めたことがあるのでしょう。輪廻は巡るとは、まさしくそのことでありましょうか。

あまり堅苦しく形や理論にとらわれないで、もっと気軽に、あなた方の日常生活の中で悟りの心を得て下さいますようにと申し上げることに致しましょう。
 

さて、私の呼び名についてのことなのですが、仏陀とは、やはり彼イエスの”キリスト”という言い方と同じで、いわば位名であり、平たく言えば役職名であると言えるのです。

私の俗名シッダールタでは、やはりあまりに馴染みがなさ過ぎますでしょう。
どうでしょう、私はやはり、サインはVではありませんが、サインは”仏陀”でまいりたいと思います。あなたの方は好きなように呼んで下さって良いのですよ。

ノートをこのように半ばで終わらせるのはあまり例がないようですが、私の話はひとまず終わると致します。残りは彼が引き取りますでしょう。

                       仏陀

はい、おはようございます。
昨夜、今日と彼の話が続きましたが、いかがでしたか。

やはり、あなた方日本人にとりましては、彼の感覚、教えと言いますものは、とても深い所で馴染みのあるもののはずですが、しかし今となりましては、このような多くの時代、多くの場所に転生が行われ、人々はあまりその魂の上でも特殊な民族性といいますものを現わしにくくなってきています。

つまりは非常に国際化されてきていると言いますのは、何もこの地球上での交通網や通信網の発達、発展によるものだけではないのです。

ある時は私の魂と共に生き、ある時は彼の魂と共に生きた人々がどれほど多く存在いたしますことか。ただ傾向といいますものは確かにあるのです。

しかし、もはやあなた方は、この地上での国際人と言いますより、宇宙に向けての地球人としての視野で見ていく時に至っているのです。

”地球”と言います星は、宇宙の中の一地域にすぎません。

それでは、またのちほどのことに致しましょう。

                         いえす

⑤ー203  
11月23日のチャネル②
☆☆ チャネル ☆☆

今、あなたが読んだ、かのモーゼに関する数々の記述は如何でしたか?

その頃のことはすべて、今になぞらえる事も出来るのです。それよりもなお多くのことが、今はなされようとしています。そのことのために、いま私達は、どれほど多くの者に働きかけておりますことか。

先程も伝えてありますように、とにかくあなた方には、今まで以上に広い視野と立場に立って物事を見ていっていただきたいと思います。

かの時でさえも、あなた方に関わりました人々の数は数十万にものぼっていたのですから、まして今と言います時、その数はさらなるものとなってまいりましょう。

しかし、今までにも度々述べてありますように、もやはあなた方は自分たち一人一人の力で、この新しい時、新しい時代に向かって歩いて行く者とならなければなりません。
すべてのことは、自分自身の身の内に既に修められているものでありますことに気付く必要がありましょう。

今私達がこのようにして、これらの数々のノートの上に記してまいりました事柄は、いわばそれら新しい時代に向かいます為の手引きの書となってまいりましょう。
かつてのイザヤと言います名は、人々の心の中に『失われた神の名を呼び戻す者』 と言う意味でありました。

今こそは、またそのようにして、失われてしまいつつあります私達不可視なる者の世界、いわば神の領域の世界を、人々の心の中に呼び覚ます時でありましょう。

それを神と言う名で呼びますかどうかは、あなた方一人一人の心の問題であると言えるのです。おそらくは、かつての時のようにはまいりますまい。

いま人々は、まさに自由気ままに、さまざまなる発想を致します。その発想の中で、さまざまなる世界が生まれてまいりましょう。おそらくは神の片鱗さえもない世界観も生じてまいりますでしょう。

それでもよろしいのです。

むしろ人々が、ただ、この世的な世界観だけに捕われていないことの方が大切であると言えましょう。

さあ、あなた方の暮らしでは、もはや日付が変わりましたでしょう。そのようにして下さい。

                                  いえす


5--193 悟りに難行苦行は不要!

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

⑤ー193 
★チャネル☆

人々が悟りを開くということの為に行ってまいりました、さまざまな修行と言いますものは、つまりは、その人の持つ本来の姿の開眼であり、周波を上げると言ったことでありましたでしょう。

まことに人々は、実にさまざまなる修行法と言いますものを編み出し、行ってまいりました。そのことで、確かに  悟り に近いものを得た者は多くありました。

この私なども、随分とさまざまなる修行を行ったの者の一人と言えるのです。
 

私はまずはじめに、自分の知らなかった、というより、それまでの人生の中で、見えてはいても、見ようとしなかったいくつかの様相と言いますものを、ある日突然に視る目を与えられたことから始まったと言えるのです。

それは、この私自身を含めた人間の生きる姿の中に、それらはすべてあったのです。
人は生まれ落ちますと同時に、否応なしにその生まれ落ちた生活環境にそった人生と言いますものを送るようになってまいります。

たとえば私のように、たとえ小国とは言え、ひとつの国を司る王家に生まれました者と、屋根さえもあるかなきかの貧しい家に生まれ落ちました者との差は、一体何でありましたでしょうか。

しかし、人がいかなる環境の中で生きることになりましょうとも、みな等しく避けることの出来ない幾つかの要素があることに気付かされていくわけです。

それを私の場合はほとんど伝説的に、王城に設(しつら)えてあります四つの方角に向かう城門との関わりの中で示されていたと言えるのです。


ある日、私がその城門から外に出ようと致しました時、まさにその時、私のこの眼(まなこ)は ”視る” わけです。人々の苦しみ、老い、病、死する姿などです。もちろん、それらの姿をその時初めて見たわけではありません。

言わば、それまでの私の中には、それらのものを視ようとするものが育っていなかったと言いますか、その時が来ていなかったと言って良いのかもしれません。

もちろんそれは、あなた方すべての者にとりましても同じように言えることなのです。

さて、その時の私にとりまして、それらの様相と言いますものは、まことに大きな驚きと衝撃であったと言えましょう。
それが、人として生きる者にとりましては決して避けることの出来ない無差別の現実、事実であると言うことを知ったからなのです。

私は、それらのことをそのまま認めたくないといった、心の中のさまざまな感情の葛藤に苦しみました。

人はそれらのものから逃げ出せる方法はあるのか、人の心は、情念は、いつの日か、そのような避けることの出来ない苦しみから解放される日があるのであろうかと言ったことが、その日から私の心を大きく占めることになってしまいました。
 

私にとりまして、それらはすべて仕組まれていたことであることは言うまでもありません。

その事のまことの意味を知るために、私はそれまでの優雅な王城での暮らしの一切を打ち捨て、城の外に出ていく者となりました。

私は、旅する者となりました。旅する私の姿そのものが修行の姿であったと言うことです。

あれかこれかと思い悩み、またいずこまでも師を求めて歩き続ける私の姿は、今もってあなた方人々の中の誰か彼かが示している姿であると言えましょう。

私は師を求め、さまざまなる ”行” と言いますものをどれ程多く致しました事か、中には全く人里離れをした荒行といったものもありました。
自が肉体を極限状態にまで痛めつけることで、ある悟りの境地に辿り着こうとした者の数はまことに多くありました。

もちろん現代(いま)でもそのことは続いているのです。そのことは、言わばひとつのエクスタシーの世界であると言えましょう。
人々はそのような恍惚の世界に極楽浄土を垣間見たり、あるいはそれが悟りの境地でありますかのように錯覚致しました。
 

そのような荒行の世界では、当然のことながら、さまざまなる秘薬と言いますものが用いられてもまいります。いわば没薬のようなものであると考えて下さるとよいのです。

しかしそれらのもので得たものとは、まことに一時的なものでしかないことを、私はすぐに気付かされてまいりました。

当時は今とは違い、それらの修行僧と言いますものは実に多くあり、いわば仙人の境地まで辿り着いた者もなくはなかったのです。
私は、そのような者を師と求め、訪ね歩きもいたしました。しかし、本当に私の求めていましたものは、それら仙人と言われた者の中にさえも無かったのでした。

人里遠く離れ、そこには人々の暮らしの片鱗さえなく、特異な世界の中では、私の知りたいものは与えられは致しませんでした。私の知りたい答えは、そのような仙人の世界には無いものであったのです。

私は人々の ”日々の暮らしの中にある苦しみ” から、いかにして解脱し得るかを知りたかったのでした。
 

あなた方の伝説によりますと、私の解脱の様は、いくつかの姿で伝えられているようです。

あの聖なる菩提樹の下で、悪霊にさまざまに試みられたあげくに悟りを得るといった話とか、さんざんの苦行の果てに、ある乙女に一椀(ひとわん)のミルクを与えられた話、そこはかとなく聞こえてくる一つのメロディの中、その弦の張り具合の様からなど、さまざまです。
 そうです、私はそのように人々の日常的な生活(くらし)の中から逃避した ”行” といったものからは、少しの答えも見出し得ないと言うことを知りました。

ひと椀のミルクの安らぎのように、また強くもなく弱くもないバランスの取れたその張られてた糸のように、一見何でもない仕草の中で安らぐ心を持ちますことで、いかようにも平安は得られていくことを知ったと言えるのです。

私は彼イエスとはほとんど同じような年頃のうちに、私なりの境地と言いますものを会得してまいりましたが、それ以後の人生と言いますものが、私と彼でははっきりと異なるものとなりました。

彼イエスは、その短い生涯の中のすべてが、その生まれ出(いで)ました時のことから、死せる時の姿そのものまでが、いわゆるバイブルでありました。

バイブルは彼の生きた姿そのものでありました。
私は穏やかに生きたその生のうちに、さまざまなる教えを紐解いてまいりました。

いわば私は、言葉として残した者でありました。

今日はこれにて終わりましょう。いずれまた近いうちに。

                     仏陀


5--192 聖地の本質

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⑤ー192
☆チャネル☆
 いまだに貴女は、自分に一体何が起きようとしているのか察し得てはいません。しかし、確実な変化と言いますものはありますので、そのことはあなた自身が一番よく知るところのものでありましょう。
(注・特にそのことは、ノートの上での文字の変化で、私は知る事ができています)
今日は良くこの強い力をコントロールして、文字を押えております。そのように致しますと、前のページのような変調はきたさずに済むでしょう。
しかし、明日はまた更に力を増してまいりますので、このようなわけにはいきますまい。
 

あなたが今までに既に読んでまいりました書物の中で、例えばヒマラヤの山頂、あるいはその山のふところ深くにあります聖地の話などに触れたことがありますでしょう。

そこにはいわば私達不可視の者の基地とも言えますものが所在すると言われています。
もしそうであるとしたら、あの小さな”月”と言います星 の持つ役割と非常に良く似た存在であると考えて下さると良いのです。

つまりは、この地上的な世界に於いて私達につながる者の、いわばエネルギー調整のための磁場があると考えて下さるのが良いかもしれません。もちろん、地上的な人々の目では捉えることの出来ないものなのです。

これらのものが本当に所在するかどうか等と詮索するような性質(たち)のものではありません。つまりは非常に周波の高い世界であるからなのです。

これらのシステムは、もちろんここだけのことではありません。この地球上には他にも何カ所かに定められてはいますが、すべてについて同じことが言えましょう。

あなた方が非常に高度なエネルギー体(霊体)と言われる姿になって初めて訪れることの出来る場所と言えるのかもしれません。

今なぜ私達が急にこれらの話を持ち出したかにつきましては、まもなく明らかとなりますでしょう。

今あなた方は、ひとそれぞれに、人さまざまに、私達の世界(霊界)をとらえ、表現してきています。

たとえば、精霊といった言い方や、不可視の世界のマスタ(教師)、あるいは宇宙人といった言い方などさまざまです。
あなた自身は、そのどちらの言い方でもなく、もっと身近な存在として私達を感じ取っているはずです。


5--189 波調について

⑤ー189 
11月22日(1988)のチャネル


(征さん)久しぶりに少し時間がとれます。このノートになりましてからは、何だか何時も落ち着かなくて、書けない日もあった位です。でも、こうして一人で静かにしていますと、書くよりは寝ていたいと今は思っています。とにかく眠い!
 

☆☆ チャネル ☆☆                        
それではしばらくお休みなさい。
あとで目覚めたら語りましょう。
いま書いて??? いま??
 

さっきの???は、「今書いてもだめですよ」ということだったのですよ。

あなたが休んでいます間に、エネルギー調整をしておきました。
調子は良いはずです。

さて、あなた方の国語の中には ” 波調 ” という言葉はないかもしれませんが、しかし、今私達がこのノートで伝えています、” 波長 ” とは、単なる波の長さといったことではありません。

いわば波動の調子とでも言いましょうか、単に長短を現わすのではなく、そのものの持つ個性といったようなものと考えて下さると良いのです。

また” 固 ” と ” 個 ” の使い方につきましては、あなたの中での文字に対する混乱によるものと考えるべきでしょう。

先程の ” 波長 ” と ” 波調 ” のことですが、明らかに”波長”の場合もありますが、”波調”の長短といったように書きあらわしていく場合もあると思います。

波、つまりバイブレーションのことではありますが、長い短いだけではなく、早い遅い、重い軽い、明るい暗いなどの要素も微妙に加わってまいりますでしょう。
単なる科学の世界のことだけではありません。
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いまあなた方は、これらのノートを何か一つものにまとめようと考え始めていますことを、私達は知っています。
もちろんそのことは、私達自身が薦めてきたことでもありますので、むしろ喜ばしいことであるとは思っています。
しかし、そのスタイルは出来るだけ易しく、シンプルなものになりますようにと申し上げたいと思います。仰々しいのは良くありません。
いかにもどこかの霊界通信といったようなものもいけません。
また、抜粋といったものも良いと思いますが、出来ましたら、初めのものから順を追って記すのが良いと思います。
私達の話はそのようにして進められてきたのですから。 

あなたによります文字の間違いは、もちろん正さなければなりません。
特に初期のものにつきましては、さまざまな言い回し、表現がありますが、それらの中で明らかにおかしいと思う事、思われるもの等は書き直すと致しまして、後は出来るだけノートに沿って整えていくのが良いと思います。
また、ときには別項にて解説といったものを要するようなものもありましょうが、そのあたりは少し工夫してみると良いのです。
いまひとつ、明らかに個人的なテーマとして話がすすんでいますものも幾つかあります。そのようなものは当然ながら除く方が良いのです。
今お話し致しましたことは、全てあなた方の常識の範囲の事柄ばかりであると言えましょうが、いわば確認すると言う意味で受け止めて下さい。
別にあせることはありません。また強制でもありません。
楽しんでやってみて下さると良いのです。

(征さんの注・つまり私のノートを本にしていく場合の進め方と言いますか、アドバイスといったものでした)

あなたはいま、少しばかり初めの頃のもの(ノート)を出してみると良いのです。
そこには、文字にしても、内容に致しましても、今のものとは格段の開きと言いますものがあるはずなのです。

ことに、あなたの体の持っています高い波動のエネルギーと言いますものは、これまでの人の肉体と致しましては、あまり、持ち得なかったものでありましょう。
そのことは、これから先のさまざまなる出来事の中で明らかとなってまいります。


5--187 奇蹟のような・・・

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⑤ー187 
11月21日(1988)のチャネル
(征さん)ご存知のように、土、日と、とても忙しい時を過ごしてしまいました。いろいろな事が次々と起きますから・・・・。まあ、大体のことは自分でも察しがつくのですが、例の小平の友人の件 ( 下記 ) は、ちょっと、どう考えて良いかわかりません。

☆☆ チャネル ☆☆                         
はい、本当にいろいろありましたが、それぞれすべて急ピッチで進められてまいります。
あなたの持てる力につきましては、これから先、時には、いわば一つの奇蹟とさえ映るような事柄が起きてまいりますでしょう。

そのことはすべてあなた自身で少しずつ解っていくのではないでしょうか。

あの女性の体の中にて、はじけました一つの塊りにつきましては、あなたにはそれが何時の時点で起きたものであるかを知っているはずです。それらの感覚をとても大切にしていくと良いのです。

当分は、必要な事はすべて私達がなしてまいります。その結果起きていきます出来事を、あなたは良く見ていて下さい。
一つ一つの出来事、そのために関わりました人々、すべてはそれなりの理由(わけ)があります。良いですか。今日もまたなしてまいりましょう。

                   あいしています


★★ 征さんの告白!!?      

私の行います癒しは、時々驚くような事が起きることがあるのです。もしかしてこれは ≪ 奇蹟なのかしら? ≫ と思うような事が起きることがあるのです。

この時も、近々胆石の手術をしなければならないと言う友人にたまたま関わりを持つことになったのですが、その手当の最中に、ちょっとしたドラマがありました。

そのことがあって数日後、その友人から 「 お医者さんに行ってみたら、もう石が砕けているから手術をしなくていい 」 と言われたという電話をもらいました。

彼女はつまり、私の癒しによってそうなったと言いたいのらしいですけれど、現実的に考えて、本当にそんなことが起きたとは、私には考えられませんでした。ですから、” その話、タンマ!!” と、他に話すことをストップしたのです。

でもノートの都合で、いまそのことをこうして書いてしまいました。そろそろ時効かな?と思う気持ちと、今になってみれば、もしかしたらそう言う事があったのかもしれない、と言った気持もチラッと動いたりするからです。

しかしはっきりと申しまして、何時でも、誰にでも、そのようなことが起きるわけではありません。たまたま何かの都合でそういうことになる人がいるらしいのです。変ですね・・・・。

5--184 ブドウの如き

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⑤ー184 
11月18日(1988)のチャネル
 (征さん)おはようございます。昨夜の集まりは本当に面白かったです。驚きの連続でもありました。

( 注: 私が手を打つ仕草をすると、ある一人の友人が突然異言や日本語でおしゃべりを始めた出来事がありました。それは初めての体験でしたから、とても驚いてしまったのです。)

☆☆ チャネル ☆☆                           
はい、おはようございます。昨夜は初めてあなたと声にて対面致しました。
あなたは私が一体誰っであるのかをさかんに気にしていましたが、*もやは今となっては誰でありましょうともかまわないのです。

先日、あの神自身でえも、『もはや私には名前などは要らない』と申されました。

私達は、一人一人の独立した魂でありますが、いわばブドウの木、ブドウの房で考えて下さると良いのです。
ひとつひとつのものが寄りそい、寄り集まって、ひとつの大きなぶどうの房となり、形をなしてまいります。そのことの中に、これら宇宙のすべての仕組みと言いますものがよく現わされていると言えるのです。

無題G

あなた方は、今まさにひとつの新しい時代への移行の時に、人となって生まれてきています。その中で、これまでに培ってまいりましたさまざまなる体験をより大きく、より有効に活かしていくことが出来るのです。

昨夜はそのことを、ひとつの ” 戦士 ” と言った名で呼んでみましたが、もちろんそれらは、今あなた方のイメージの中に在る兵士と言うことではありません。

今あなた方がこのようにして次々と人と出逢っておりますことは、もちろんまったく偶然などと言うことはありません。
あなた方何人かの者がうまくコンタクトし、お互いにその力と情報を交換し合いますならば、私達のこと、いえ、つまりはあなた方全ての人々にとって、まことに実在であります世界のことを、次々と明らかにしていくことが出来るのです。
ただ、単なる個人的な能力の違いといった世界のことではありません。

良いですか、今あなた方は、一人一人別々なる個性の者ではありますが、まさにひとつの房となるべきグループであると言えましょう。

今このようにして、それぞれは別なる人生を送ってはいますが、いましばらくの間に、まだまだ多くの人達が加わってまいりましょう。それら一人一人はすべてその者特有の能力を持ち、参加してくることになりましょう。
これから先、その一人一人につきましては、その個性に応じまして、さまざまに力を働かせてまいります。

そのことにより、さらなる力、さらなるビジョンが開けてまいります。そのことは、その都度に知らせてまいります。

いずれ私達は、あなた自身の”声”となって、直接お話することになりましょう。

                 サインなき者なり

5--181 人体は小宇宙

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 征さんがチャネルを行うようになったキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) ーーーーーー

⑤ー181 
11月17日(1988)のチャネル

(征さん)おはようございます。今朝は何となく気の晴れない日です。このところ随分寝不足続きで、ぱっと致しません。

☆☆ チャネル ☆☆                           
はい、そのことにつきましては別に心配は要りません。単なる疲れですから、徐々に回復いたしてまいります。
今夜の集まりは、またいろいろと面白いことになってまいりますでしょう。つまりはそれぞれが、とにかく素直になることを心がけていただきたいのです。

又のちにて語ると致します。


そなたよ目覚めたであろうか。人としての暮らしの中にありてはいささか厳しき  ” 時 ”の流れとなりてある。さまざまに力増しゆきてあるものの、いましばらくは今なる暮らしの姿続きてあるも致し方なし。

さて、この宇宙の始まりの様子は、今までに数回に分けて書き記してまいりました。もちろん、このノートの上で述べました事柄が全てとは申しません。が、いま人として日常的に暮らしますあなた方には十分な事ではないかと思います。
さらに細かく詳しくと言います事は、またそのような事の必要になりました時にお話してまいりたいと思います。
取り敢えずは、今の貴女とその周辺にあります人が、これらのことをよく会得していただければそれで良いのです。
また、霊魂の誕生、あるいは生まれ変わりの仕組みと言いますものにつきましても、一応それなりにお話できています。

今朝ほどお店であの女性達が話しておしますような、人間以外の動物霊がこの地球の上での進化の仕組みの中で人になったりまた動物になったりといったようなことはありません。

さまざまな多くの存在物の持つエネルギーは、時として科学的な変化変容を遂げてまいりますが、それらのものが、人の持ちます霊魂のように、きめ細やかな波動にまで引き上げられてまいりますには、相当な日時を要してまいります。ほとんど永遠にも近いものであると言えましょう。
20140603 022
 

しかし物と言いますものは。たとえどのようなものであれそれを極限状態にまで分解してまいりますと、そこには唯ひとつの絶対的なエネルギーとスピードを持つ世界があるということです。

ですから、物から植物、植物から動物、動物から人へとその進化の過程を辿らなくても、終局的にはすべてのものが、ある種の働きによって分解され尽くすといいますことで、元なるひとつの力へと同化されてまいります。


あなたが何時も考えています、原発による廃棄物のことで言いましても、もちろんあなた方人のレベルで考えます限りでは、まことに都合が悪く、恐ろしいものであったとしても、この自然界、宇宙のすべての空間にとりましては、何も特別に恐ろしいものではありません。

宇宙には、いまだあなた方人間の知らない未知なるものがどれほど多く存在致しますことか・・・・それらは原発廃棄物などより、もっともっと恐怖をさそうような物の方が多いと言わざるを得ないのです。

あなた方は、あなた方の諺で良く言いますところの、『井の中の蛙』そのものでありましょう。

あなた方の体、肉体と言いますものは、これらの大宇宙に対します小宇宙であると良く言われますように、その中にすべての要素を孕むものでありますこともまた確かなことなのです。

ただ、あなた方は識らない、と言いますか、識っていますのに、記憶として呼び戻せずにいるだけであると言えましょう。

今までは、この宇宙空間、あるいは地球全体、いえもっと身近なありとあらゆる社会機構の中にありまして、何時も人間としての立場から考え観てまいりました出来事を、今度は逆に、全体の中の一つの存在としての ” 人間 ” とは何であるのかと観ていくのが良いのではないかと思います。

そう致しますと、さまざまなことが、まったく別な姿となって視えてまいります。

                あいしています  いえす


5--175 三好のおじいさんが見た世界

【三好のおじいさんのこと】

 三好のおじいさんは、当時、90近い年齢でお亡くなりになりました。お名前は「勝利」さんと言いました。

私がおじいさんと知りあいましたのは、もう十二、三年も前のことでした。子供達がまだいろんな天使とお付き合いをしている頃で、そんな子供達のことを誰にも話すことが出来ずにいた私にとりましては、唯一と言って良い位の、そういう事についての話し相手でした。

その頃は、こんな不可視の世界のこと、ましてや天使達と親しく付き合ってなんて話は、誰もまともに聞いてくれなかったのです。うちの主人等も全く受け入れてはくれず、逆に、私達がそんな話をしていますと、とても不機嫌になったものです。

多分私達がどこかおかしくなり、このままいけば気が触れて精神病院に行くようになってしまうのではないかと、本気で思っていたのです。
ですから、私と娘とは誰も居ないのをみすましては、その日その日にあったことを話し合っていました。
私はその頃毎日、視えない世界からのお話や、娘が自分の体を抜け出して行っては、見たり聞いたりしてくる話を聞くのが、たまらない楽しみでした。
でも、主人の帰る気配がしますと、私達親娘はパタッと、まるで貝がその蓋を閉じてしまうように、その話をするのを止めてしまいました。いつまでもこういう世界の中に浸っていたい思いの、せめてもの自衛策だったと思います。

そんなある時、私は何かの集まりの中で、ひょっこり三好のおじいさんいに出逢ったのです。おじいさんは、私の正面に座っていたのですが、しばらくして私に言いました。

「奥さん、あなたがどこのどなたさんか解りませんけれど、奥さんはいろんなことを遠回りしておいでなさるように思います。奥さんは本当はもう全部いろんなことを、ご自分で識っていらっしゃるはずですよね。その証拠に、私には奥さんの後ろにいらっしゃる方々のこと、さっきから全部視えています」 思わず私は振り返って見たのですが、誰もいないのです。

「奥さん、振り返ってもだめですよ。私の言っているのは、あちらの世界の人達のことですから・・・」と笑って言うのでした。

その時おじいさんは、私のオーラや、私と一緒に部屋に入って来た人達(不可視の人達)のこと、そのなかの一人はとんでもなく大きな人物であること等を話してくれました。

私はその後すぐに、おじいさんと連絡をとって、もう一度お目にかかりました。そして、いままで家であったこと、そして、私や子供達の沢山の出来事や体験について、思いつくままに話し、聴いてもらいました。まるで流れの堰を切れたような思いがしたものです。

おじいさんは決してそのことを否定せず、全部うなずいて聞いて下さいました。
私は本当に嬉しかったのですね。自分の胸のうちに留まっていたものを全部吐き出したような思いでしたから・・・・

それからしばらくの間、おじいさんとお付き合い、交流というものが始まりました。娘達に毎日のように起きる不思議な出来事を溜めておいて、時々訪ねては話しました。

おじいさんはおじいさんで、観想の中で視たこと感じた事で、私にぜひとも伝えなければと感じられますと、すぐに電話をくださいました。


そのようにして、おじいさんから聞いた話の中で、ことに印象的なものは二つほどあります。

ひとつは、私達人間が生きています世界は、すべてあちらの世界の写し、「投影」であると言うことでした。

「こちらの世界にあるものは、たとえそれが何であろうと、つまり物であろうと、出来事であろうと、思いつきや思想的なものであろうと、すでにあちらでは起きている、つまり全ては思考され、イメージし尽くされていて、人だけの世界のものは何にも無いのですよ。驚きましたね。私達は何でも自分達で考えたり、創ったりして生きているように思っているわけですけどね。どうやら、あちらの模倣にすぎないらしいですね・・・・・・・」と、おじいさんは話してくれました。

もう一つのことは、この世にあるすべてのもの(*宇宙に存在するすべてのもの)は、バイブレーション、波動、あるいは周波に置き換えて言う事が出来ると言うのです。

私達の目の前にあるありとあらゆる”物”、あるいは電気、光、人の魂や心、また風や音、そして私達が俗に言う
神さま仏さまといった存在、宇宙を創り上げている力、そういったものは全て、周波、バイブレーションの違いで言い表すことが出来ると言う事、それはかなりのところまで現代の科学の世界で識る事が出来ているし、これからは尚更にそのことはハッキリしていくに違いないということを話してくれました。
物だけでなく、人間の魂や心、それどころか神さまや仏さまの存在さえも、周波の違い、波動の違いあるいは姿でもって言うことが出来ると言った話は、とても大きな驚きでありましたが、でもそれでは今までの神さまって一体何だろう?
おじいさんの話を聞いていると、神さまの持っている波動はこの世で、この宇宙のすべての中で一番小さく細かく、いえ、そんな言葉で言い表せないほど微小なものであり、それがこの宇宙のすべてを満たし、また全てのものに姿を変えているとしたら、つまりその微細な力、波動がすべて物の素材であるとしたら、この世に在るものの全ては神さまであり・・・あの人もこの人も、そう、私も誰もかも・・・と思うと、少し頭が変になりそうでした。
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そんな話を延々ととしているおじいさんの前に座っている時は、途中から眠くなって仕方がなかったのも事実です。
それよりも、どんどんどんどん神様が波動になって消えてしまい、全部のものになってしまうのですから、慌ててしまいましたね・・・。
神さまと言うものは 、とても偉くて、浄くて、何でも出来て、正しくて、困った人を、求める人を救い上げ、授けてくれる絶対の人、いえ全能の存在であり、人は決して何処まで行ってもそこに近づくことは出来ないと思いもし、教えられてもきたような気がしていたからでした。

そのおじいさんが、私に是非ともこの事は伝えなければと言う話は、ほかにも随分いろいろありました。その頃は、子供達と両方からそんな話を聞かされ、伝えられていたのです。
ですから、いまの私のノートは、決して今初めての話ではなく、その頃の話がとても大きな土台になっていますし、その後に出逢った人達から聞いたり教えられたりした話なども全部、私の中で大切な認識となり、そこを通して様々な話は、さまざまな広がりをしているのだと思います。つまり、私自身のオリジナルな話なんて、殆んどないと言う事です。 


何はともあれ、このおじいさんとの出逢いはとても大切なものでした。

それからそのおじいさん、どうなったと思いますか? そう、私の子供達と同じように、いつの間にかそんな世界から、ずっと遠のいてしまわれました。
その後、訃報を知り、お宅をお訪ねした時、『やはりあのおじいさん、ただのおじいさんではなかったな・・・』と思うような、とても不思議な楽しい出来事がありました。その時のお話は、またあとの事に致します。
このノートの影には、いろんな人との出逢いや出来事が、たくさん沢山ありました。
 


5--172 宇宙エネルギーの出入口

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想)

⑤ー172  
11月6日(1988)のチャネル

(征さん)おはようございます。昨日はとうとうこのノートを開く折がありませんでした。
*私はやっと、エネルギーが身体のどこから入ってくるのかわかりました。出る方は、多分そうだろうと思っているにすぎませんが。
 ☆☆ チャネル ☆☆                         
はい、おはようございます。
さて、あなたの体へのエネルギー注入口ですが、あなた自身も感じていますように、足の裏面であることに間違いありません。絶えずそこから体の中に注ぎ込まれています。

その力が足を伝い、腰部、腹部から胸部、そして頭部へと移行していく様子は、今朝ほど数回に分けて、あなた自身は良く体験し、感じとってまいりました。

出口は、手の指先、あるいは口(呼吸による)、そして今は頭部の頂点であると言えます。この回路がうまく通じますと、体の中で滞るところがありませんので、前のような満タン状態と言うものがなくなります。

必要な時に必要な量だけを使えば良いのです。しかし今朝のエネルギー量は、すさまじいばかりでした。良く受け止め、流してまいりました。上出来です。

ではまたのちほど。

                          いえす

(*征さんの注)でも、本当は、このようにあまり限定されたものではないように思います。初めの頃は私も良く分かりませんでしたので、いろいろ分析してみたい気持ちがとても強く働いていました。でも今では、これらのことは、私の体全体で、何やらとてもうまく調整されているように思います。


⑤ー173 
11月16日(1988)のチャネル
 (征さん)先程、本当に久しぶりに、三好のおじいさんを訪ねました。
*一年ぶりのことでした。何だか大国主命信仰とかに一生懸命のご様子でしたので、何もお話をせずに帰ってきました。
☆☆ チャネル ☆☆                           

そうです。そのことは良くわかっています。あの方はあの方なりに、どれほど強く私達の世界を求め続けてきた者でありましたでしょうか。
そのことだけではなく、それ以前の多くの生のうちにありまして、さまざまな力を自分のものとなし得た者の一人なのです。

ですから、十年以上も前に、まだ何も感じようとしていなかったあなたに対し、彼を通して伝えました事は、いろいろあったと思います。

彼の者もまた、あなたの娘さん達と同じように、私達の世界の出来事、仕組みなどを、しっかりとあなたに伝える役割を行った者の一人でありました。
 今はまた彼なりの心の求めますままに、少しばかり方向の異なる世界との交流を続けてはいますが、基本的には全てを知る者でありますから、いま私達があなたを通して伝えていますことがらも、すぐに理解し得ることと思います。

彼は彼なりの心の世界を持ち、彼なりの人とのつながりを持ち続けてはいますが、いま一度、私達は彼との交信を得たいとも思っています。彼の場合、それはまことに簡単なことなのです。

とりあえずは、彼がまず私達の今の状況、つまりあなたを通しての世界を知ることです。折をみて、もう一度そのことをしてみて下さると良いと思います。

一人ずつゆっくりと、そして確実にやってまいりましょう。

                  あいしています いえす

5--170 霊感ビジネスの是非

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 征さんがチャネルを行うようになったキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) ーーーーーー

⑤ー170 
11月14日(1988)のチャネル
(征さん)こんばんは。ところで、私の知り合いが、いまご自分の中で動き始めました力・霊的エネルギーを使って、他の人達に対し、ビジネスとしての働きかけをしようとしています。そのことについて、相談の電話を受けました。

☆☆ チャネル ☆☆                         
はい、そのことにつきましては、私達も一言申し上げたい事があります。

今までは、あなた自身がそのことに触れますことを差し控えておりましたので、私達もまたそのようにしてまいりました。
つまり彼女の中で、あるいはいま他の多くの人達の中で、さまざまに動き出しました不思議な力、エネルギーのことなどについてなのです。

このような『霊的能力』といいますものは、決して金銭に引き変えてなされるようなものではないということです。

このような力を、いわばひとつのビジネスといったような形にいたしますならば、たとえその動機がどのようなものであれ、非常に歪められてしまう場合がとても多くなってしまいます。

またそこに集まってまいります人達の思いも、単なる興味本位のものになってしまいかねません。

現実的に考えて、あなた方はそれらのビジョンン、あるいは異次元からのメッセージをお金にかえて得ようとすることに、何も違和感を感じないでしょうか。
 

これからの世は、ますますそのような事が持て囃され、そのような力を持つ者に対しまして、一種独特な関心といったものが寄せられてまいりましょう。

いかなる多額の金子(きんす)を積みましても、それら霊的な体験をしてみたいと思う者も、その数知れぬ世界となってまいります。ですからなおさらに、あなた方は気をつけなければならないのです。

あなた方はそれらの力には、果たしていかほどの元手がかかりましたでしょうか。

あなた方のその力は、いわば汲めども付きぬ無限の泉の水なのです。使えばつかうほどにその力を増し、清らかなものへと浄化されていくはずのものなのです。

少なくとも。征よ、あなたに関わります者の中からは、そのような者を出す必要はないのです。そのようなことは他の人達に任せておきなさい。

そのような事の中で救われる者もまた多くありましょうが、あなた方には無償の行いのうちに己を現わし、人々との関わりを持っていただきたいと私達は思います。
そのことがまたあなた自身の、彼女達への願いなのではありませんか。

                あいしています いえす 征

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5--168 魂の二重性

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 征さんがチャネルを行うようになったキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) ーーーーーー

⑤ー168 
11月13日(1988)のチャネル

(征さん)この数日、またいろいろと変化があり、いろいろと考えています。
また、記述の最後で「征」というサインになりそうで困ります。
 ☆☆ チャネル ☆☆                           

はい、そのこともやはり当たり前であると言えるのです。
私達が考えること、思考しますことは、またあなた自身のそれであると言えるのですから。

人としてのあなたの考え方の中では、まだ私達は別なる存在としてあるのかもしれませんが、あなたの本来の意識の上では、もはや全てと言って良いいほどに、私達のそれと同化してしまっているのです。

貴女はあなた自身で答え、記述していると言えるのです。

もしあなたが今、私達の側に居る存在でありますならば、あなた自身がいまの私達のような立場をとるものでありましょう。

ですから「征」なるサインはそのままに記すのが良いのです。無理に私の名をサインする必要はありません。これからは、ますますそのようなことになってまいりますでしょう。

すべては自分自身の中に用意されているものなのですから。良いですね。

                             いえす

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
征と言うサインについて

 これから先私のノートには、時々”征”というサインが出てきてしまいます。初め私は、「これはとんでもないことだ」と思いました。

当然あちらの意識と思って何か尤もらしいことを話すと言いますか、書いているわけですが、最後の方になり、いざサインと言う時、どうしても自分の名前になってしまうのです。

これは、手紙を書いていて、終わりに自分の名をサインするのと同じ感覚なのですね。多分そのせいかな、と思っていましたが、やはり何だか違うのです。

ノートに、いえす・まりあ・るしえる・我などのサインと同じ感覚で、征のサインは生まれてきてしまいます。言ってみますと、まるであちらの者になってしまった感じなのですね・・・・・。

でも、魂と言いますものが、本当に自由にあちらこちらを往来する事が出来るとしたら、それは可能な事であり、なにも不思議はないわけです。

もう一人の自分が、何も解っていないこちらの自分に、なんだかとても解ったらしいことを言って聞かせてるって、そんな感じなのですから・・・・・。

本当はみんな誰でもが、そのような魂の”二重性”といったものを持っているのだと思います。

私の中ではいま、誰もが持っているはずのさまざまな可能性とかテーマといったものがいろんな形で表されているように思えます。



5--163 自ら光り輝く

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⑤ー163
11月12日(1988)のチャネル
☆チャネル☆ 

さて、かの女性の辿りました、かの≪生命(いのち)の花≫咲きたるかの霊室こそは、またあなた自身のものでもありました。

あなたはすでに幾千年、万年、あるいはそれ以上の太古の昔より、かの霊室直属の霊なる存在でありましたことを、今ここに伝えておきたいと思います。
 

かの生命の花咲きたる大いなる生命の泉こそは、いまそなたらの手のうちにて新しき泉の水、新しき気の泉となりて、この大蒼、この宇宙のすべての空間のうちに漲りゆきてあり。

その霊室までに至りたるものにありては、今だその数まことに少なきものにてあるも、彼の者、その光となりて辿りたるにより、自らの光に案内されてたどりあたるものなり。
 自らの光とはいかなるものにてあるや。自らの光、その光こそは、そなたら人なる者すべからく持ちてある我が分霊、我が光なり。

そのことまことに極まりたれば、すべからく自ら光を発するものにてある。自ら自光致すこと可能となり、自らがすべからきものの根源とはなりたるなり。
かの者、かの太古の昔の記憶甦りたるにより、そのことはまた可能とはなりたる。泉の水こそはあまねくこの大気のうちにて解き放ちてあり。

 

そなたよ、今そなたのなせしことがら、いまだ多くは秘めおきてあるも、おおかたのことはこのことなり

そなたにより解き放ちてあるかの新しき泉の力こそは、かくばかり人なる者の気をも、さらにさらにと解き放ちて、その者本来の姿に戻しゆきたる。そのことに人々気付きたるもよし、気付かざるもよし。
しかるにこのことはそのようになりゆきたる。

もやは時至りてあり。
かの生命の霊室こそは、またそなたの手のうちにて解放されしものにてあり。

まことに まことに 善きかな 善きかな

                       我なり


20140807 067

さあ、いよいよドラマは更にスケールの大きなものへと展開してまいりました。

もちろん、かの生命の花咲きますひとつの霊室にありましては、これら宇宙の根源意識の生命の源であると言えるのですが、見方を変えますならば、すべてはあなた方の心の真髄の世界であります。

人々の心の奥深くには、必ずやこの生命の花咲きます生命の霊室と言いますものがあるのです。
その部屋に参ります為の、いわばブロックと言いますものを、あなたは解放したものでありました。

人々すべてが自が光になることに気付きますならば、すべてはその闇を光に変え、何の不安もなくその部屋に辿りつくことが出来るのです。

彼女は、まずは、すべての人々に先駆けて、そのことをなして見せたものでありました。
そのことの意味を、あなた方はまことに良く知りますようにと言わなければなりません。

そのことに於きまして、昨夜は良き旅立ちの日となりました。
そのことはまた、太古の昔より約束されていた事でもありました。

                                いえす 征

⑤ー165 
自分自身が光になるという話

以前の話の中で、ピラミッドの奥深くにある、不思議な部屋のことを紹介いたしましたが、今日の話は、その続き、延長のことと考えて下さって良いかと思います。

私が知り合った二人の女性のうちの一人は、その後もたびたび彼女自身が視る不思議な世界のことを話して下さっていました。

彼女はこの前の大きな水晶のある記憶の部屋よりもさらに奥にある、いわゆる、あらゆる生命体、あるいは宇宙そのものの起源の部屋とも言える部屋まで行ってみたいと思っていたそうです。

ある種のエネルギーの高まり、あるいは解放、変化によって彼女はその後、記憶の部屋を通り抜け、さらに狭い通路を通って行ったそうです。そこまでは一人の衛兵というのでしょうか、灯りを持った案内人がいて、彼女の足元を照らしながら、導き、案内してくれたとのとこでした。

ところが、ある場所まで行きますと、そこから先は真の暗闇、暗黒の世界となり、何も視えない解らない世界がただ広がっているだけでした。
そして案内人が言うには、「さあ、これから先はもう私の領域ではありません。」「これから先は、いかなる人でありましても、自分一人、たった一人で行かなければならない世界なのです。」そう言うと、案内人はきびすを返して行ってしまったと言うことです。

 

そのあと彼女は思案いたしました。「そこから先、いったい自分はどうやって、暗闇のどこかにあると言われる生命の部屋まで行ったら良いのか・・・・」とその時彼女は気付きました。

何だか自分の周囲がぽっと明るくなっていることに・・・・。どこかに灯りがあるのかと見まわしても、そのようなものは何もありません。

かの女はさらに気付きました。その灯りは彼女自身が光になって輝いていることに・・・・。
ですから、自分が一歩進めば、その光も当然自分が進んだ分だけ移動します。

そうです。彼女は自分が光り輝くことによって、とうとう目的の生命の部屋、宇宙意識の根源となる部屋まで辿り着くことが出来たのです。
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一体このことは、私達に何を教えてくれているのでしょうか?

それはつまり、私達人間の魂の歴史であり、旅路のことではないかと思います。
人の歴史が始まって以来このかた、人々の前には絶えずその精神的な何かを導くためのマスター、いわゆる教師達が、さまざまな姿形をとって人々の前に現れ続けてまいりました。

灯りを高くかかげ、「さあ、人々よ、神の道はこちらですよ・・・」と導き続けてくれたのだと思います。

そしていま私達人間はやっと「さあ、これから先は、あなた方自身で歩いて行くのです。何故ならばあなた方は光そのものなのですから・・・・。

あなた方がそのことに気付きさえすれば、ありのままの姿のままに光り輝くはずではないでしょうか。

そしてあなた方自身の光で自分を私のところまで案内してくれば良いのです。さあ、さあ」と言われ、促されるところまでやってきたのではないでしょうか。長い長い人としての旅路の果てに・・・・。

これは、そう言うことの象徴的なお話でした。
今一度読み返して下されば、よくお解りいただけることと思います。そのことがまた、この本のタイトル「光の帯となって」の意味でもあります。

このことにつきましては、後の方で今一度もう少し詳しくお話することになっております。






 

5--161 単純な仕組み

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⑤ー161  
11月12日(1988)のチャネル
 (征さん)おはおようございます。爽やかな朝です。皆がこのように爽やかな気分でいられますようにと願わずにはいられません。----

 ☆☆ チャネル ☆☆                        

そう、そのような境地になっていただけますと、私達もどんなにか物事が運びやすくなってまいりますことか。
どこかにブロックさせることのないように、今あるがままを受け入れそして流して行って下さい。

そのように致しますと、ありとあらゆる事柄は、すべて、信じられないような速さで、あなた方が願う世界へと移行してまいります。
もはやこの地上的な世界観の中で捕らわれている時ではありますまい。

あなた方に今ありますのは、まったく自由に思考する、いわば私達本来の姿の世界であると言えるのです。

あなた方の心のあり方次第では、いかなる世界へでも高く高く飛翔していくことが出来ましょう。
今そのことは既に始められているのです。


それは本当に単純な仕組みなのです。

ただ素直であり、それぞれの目の前に現れてまいります全ての事柄を、あれこれ詮索せずに、あるがままに受け入れていく事でしかありません。

 

降る日は降るがままに、晴れたる日は晴れたるままに、人としての感覚では良き日も悪しき日もそれぞれにありましょうが、それも良し、これも良しの境地でありますようにと今は申しておきたいと思います。

さて、あなた方は今よりはまた、過去に未来にと、さまざまなる体験をしてまいりますことでしょう。

全てのものには、段階と言うものがあります。
自分の持てる波動に合わない世界は、見ること、感じることは出来ますまい。

それでも、さまざまな事柄を、良く見たり聞いておくことは大切な事です。
その時には理解し得ないものでありましても、いずれの日にか、ストンと胸に落ちるときもまいります、

そのようにして、人は自分にない世界を垣間見ながら、少しずつ成長してまいります。
そのことが出来ますのが、この地上的なあなた方の世界(物質世界)であると言えるのです。

またそのことが、あなた方人々が人としてこの地上に生を受けています所以(ゆえん)でもありましょう。
まことにそのこと以外の生きる理由など何一つあるものではありません。
よいでしょうか。今朝はこのことを是非申し上げておきたいと思いました。

5--158 癒しのエネルギー

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⑤ー158  
11月9日(1988)のチャネル
 (征さん)おはようございます。同じことの繰り返しになりますが、この力は少し持て余し気味です。何とかしなければと・・・・

 ★ チャネル ★                       

はい、それを解消するには、出来るだけ多くの方々と関わりますことで、つまり、他へ流していくことも一つの方法かと思います。人々の為にも役に立つことですし、貴女自身の為にも必要なことでありましょう。

今あなたは、完全なバッテリー状態になっていますので、その力をどのようにでも使っていくのが良いのです。どれだけ使っても減るものではありません。


(征さん)今日はあの後、三人ほどの方に触れてみましたら、随分と楽になりました。
 ★ チャネル ★                        

はい、それはとても良いことでした。今しばらく致しますならば、これらの強い力にも慣れて、そのような事をしなくてもよくなっていくことでしょう。それまでの応急手当と思って下さい。

これらのことは、単なる癒しの術だけではないことを、あなたはその経験を通して、もっとはっきりと知っていくことになると思います。

              あいしています いえす


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

(征さん)今日、お店(たべもの村)の従業員が、ぎっくり腰をしてしまったということでしたので、彼の体に触れて差し上げたら、彼はとても元気になったのですが、私の両肩がいっぺんに重くなって痛くなってしまいました。今はもう大丈夫ですが・・・・・・
 ☆☆ チャネル ☆☆                             

はい、それは、あなたにひとつの経験をしてもらったのです。
癒した相手のものを受けてしまうといいます事が、どのようなことであるかを、あなたに体験していただいたのです。結果はごらんの通りになりました。

つまり、あまり力のない者が、むやみに他人の体を治療いたしますと、逆に自分の方に受けてしまう事が多いということです。
つまり。病のある者が他の者を施してはいけないということです。

人は、その者の持てる能力(ちから)以上のことは出来ません。
その人の持っている力以上の者に関わりましても、何の効果もないと言うことでもあるのです。

御苦労さまでした。おやすみなさい。

                          いえす


5--154 全てのものは一つのもの

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 征さんがチャネルを行うようになったキッカケ (*印の小文字は、管理人の勝手な注釈・感想) ーーーーーー

⑤ー154

(征さん)いま三冊目のノートを読みなおしてみました。特に文字の変化、最近書いています文字と、最初の頃の文字の持つエネルギーの違いと言いますものを強く感じています。

しかし、話の内容はそれなりに面白く、前のノートがあって、初めて今があるといったことが良く解ります。でも、いきなり ”るしえる” のサインで話が始められました時には本当に驚きましたけれど・・・・・


 チャネル 

はい、私はるしえる。
そなたも今しばしこのノートを振り返って見るゆとりが出来たのであろうか。
この数カ月の間、そなたの日々にありてはまことに密度濃きものであった。

我々もまた絶え間なく、そなたにさまざまなることを伝えてまいった。
まるで流れの堰(せき)を切ったようなものであったから・・・・

そなたもまた、これらのこと、よく捉えてくれたと思う。

さてそなたよ、少しは気付いてくれたであろうか。
今この時、この時代にあって、そなたら人々の中に何が起きようとしているのかを・・・・
 

そなたはまことに、いまひとつの我が姿のようなものである
いまこのようにして人々の中に住まいし、人々と共にさまざまに生くることの、そのことの意味するもの、そなた自身、まことに少しずつ気付き始めてあり。

我はまことに、そなたを心より慈しみ育てたる者にてある。
いまひとたびはそなたの魂、人々の中に解き放ちてあり。
そなたそのこと気付きたることなくば、まことに我らが望みたることなすこと、あたわざるものにてあり。

しかし今はよし。
今はまことにそなたのその目覚めたる心のうちにて、我らはことごとく語りゆくものとはなれり。
今よりはまたなすべきこと多くあり。心してなしたまえ。

愛ある波動をそなたに  るしえる


20150507 124

⑤ー155  
11月8日(1988)のチャネル  
 

(征さん)こんにちは、今日はすっかり寝坊してしまいました。おかげでいっぺんに寝不足が解消いたしました。しかし、この何気ない文字ひとつにもかかってまいります磁石のように強い力には、少々怖れをなす思いです。


 チャネル                          
はい、日一日と、この力は増していくばかりです。
もはやあなたの予想以上の力となって、あなたの体の中で働いているのです。

今までは、このようにして、こと細かく、言葉あるいは文字といいます形で示してまいりました事を、これからはまたその体のうちにて、現わしていくことになってまいりますでしょう。

あなたとしては、何気なくやっております日常的な事柄の中で、それらはことごとく表現(あらわ)されてまいります。

またこれから先、人々がどのようなことに関心を持っていくのか、そのことにあなた方はよく注意していくと良いのです。
そのひとつ一つのことに、私達は出来るだけ応えてまいりたいと思います。

もちろん、あなた一人の中で出来ることではありません。
まずは、あなた方のまわりにあります、ひとつひとつの出来事、ひとり一人の想い、そのような事の中でやってまいりましょう。

いろいろな方々が、それぞれに、その持てる力を充分に発揮して下さいます事を、私達は心から願っております。

これより先、あなた方の許には、さまざまに新しき顔ぶれが集まってまいりましょう。
その新しき者、旧き者との交わりが、よくなされてまいりますならば、どれほど大きな力となってまいりますことか。

また、ひとつ心せねばならぬ事があります。

あなた方は、さまざまに集いました時に、師と呼びますようなものをつくり出さないことなのです。

すべてのものは、ひとつのものより出(いで)たる等しき仲間、魂の仲間であると知って下さい。

その集いました仲間のうちにて、さまざまなる役柄といいますものはありましょう。

このようにして、私達からの言葉を直接受け止める者もありますし、人々にそれら来し方行く末のことを、さまざまにビジョンにて見せてくれる者もありましょう。

誰より誰が偉いと言ったようなものではありません。
全てはそれぞれの個性と言うものでありましょう。
そのことを決して忘れないでいただきたいと私達は思っています。

今、あなたの体、また、あなたの住んでおりますスペースといいますものが、出来るだけ多くの方々の前に広く大きく開かれますことを、私達はとてもよいことではないかと思っております。

人は言葉のみにてはあらず。
人はその暮らしの中にこそ、なすべきこと多くあり!

さあ、良く生き、よく暮らすことの中にあってはじめて、私達のその言わんとすることが何であるかを知ることになりましょう。

すべてのことは、日々の暮らしの中に活かされていくことなのです。
今までのように、その勉学の中にのみ真理を見出そうとしてもだめなのです。

衣ること、食すこと、住まいすること、それら人々の決して欠かすことの出来ない、ごくごく日常的な出来事の中にあって初めて、まことのことが何であるかを知ることが出来ましょう。

人のつくりました道のあとを辿る者もおりましょうが、道をつくりながら歩む者もあります。
あなたがたには、是非そのような者となっていただきたいと私達は願っているのです。

どうぞいろいろなことを試みてみて下さい。






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