無量大数 (山田征さんのチャネリング)

山田征さんのチャネル(1988年から数年)を抜粋編集して紹介

2015年01月

4-34 イエスが、かつて人として生まれた時

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

④ー34
☆チャネル☆
私イエスは、かつて人として生まれました時には、母マリアだけではなく、それなりの血縁関係というものはありました。しかしそれは、私の魂の上での繋がりとばかりは言えませんでしたので、人としての関係だけでは、なかなかうまくいかない所が多くあったと言わざるを得ません。
特に、その時私の担っていました事柄を、まわりに居ました多くの人達は、ほとんど理解することが出来なかったからなのです。その事は今の貴女といますか、いつの時代の者にも言えることでありましょう。
さて、あなた方も知りますように、私イエスは、その当時ごく普通の人々の中に生を受けた者でありました。
人々を教え導く者、すくなくとも、神に繋がる事柄を人々に教え、導いていく立場の者が、そのような中から現れい出ると言います事を、当時の人々は信じることも、認めることも出来ませんでした。現実的には、神に仕える者、いわゆる聖職者といわれます人々の出る階層といいますものは、まことに厳しく隔てられていたと言えるのです。私は、いわゆる庶民と言われます階層の中から生まれは致しましたが、それは偶然の事柄ではありませんでした。

神の御心と言いますものは、そのようにして、人の世界の階層によって分け隔てられるものではないことを、まずは知っていただきますことが、第一義になされたと言えましょう。そして、母マリアもその本質は何であれ、ごく庶民的な家庭に、まことに美しく、心やさしい一人の乙女として存在いたしました。
その時の地上的な目で見ますならば、他の人々より特別に学問が秀でていたわけでもなく、人々より特に賢い動きをしていたと言うわけではなかったのです。だた、その優しさと素直さの前では、特別な者であったと言えましょう。彼女は何気なく人々の中に在りました。

しかし、その当時の人々の心は、今とはだいぶん違っていました。中にはその形だけ、スタイルだけがそうであるにすぎない者も多くありましたが、その心や生活のリズムと言いますものは、ことごとく神の掟にのっとった形で進められていたのです。もちろんそれは、モーゼによります律法であったことは言うまでもありません。
つまりは、この神の掟、律法を守ると言いますことが、ヘブライの民、神の民でありますことの厳粛なる証のようなものでありました。男も女も、老いも若きも、ことごとくこの律法の枠の中で、窮屈に暮らしていたと言わざるをえません。
また、それらの掟を、更に厳しく守り通そうとする小さな神の民のグループ、組織と言いますものが他に有りました。そのグループは、いわゆる神からダイレクトに情報を得ることが出来ました。その組織の名は、貴女もよく知りますように《エッセネ派》と言われた人々の事なのです。世間一般的な世界からは遥かに離れた、非常に精神的な生活を保っていた人々であり、霊的集団と言うことの出来る人々の事です。

その当時、この私イエスの誕生に先立ち、これらの人々は神なる意識体により。私の下降に関します様々な情報を得ていたことは言うまでもありません。それらの情報により、準備を次々と整えてまいりました。特に私の母マリアにつながります人達の中では、これから起きるべき事柄は全て現れ、知られておりました。
この組織は、いわば秘密結社のようなものであったと言っても良いのです。

その当時、これら一連の出来事の中で、いわゆる霊的な指導者と言われます者が何人か在ったことを、ここに言っておく必要がありましょう。このことは、旧約の時代から新約の時代への移行の時であり、世に言う『あたらしい時代』の始まりの時でありましたから、私達に所属いたしますグループとしての魂のほとんどは、この出来事のために地上に下降し、当時の世に在った言うべきでありましょう。
これらのグループは、それより以前さらに数千年の昔、そうです、かの大いなるピラミッド建造した時にも共にありましたし、現代のこの時代にもまた、さらに多くの者がこの世にあると言えるのです。
その頃も、いろんな人と人との関係は実に多くありました。その関係は今に持ち越していると言えますが、その役割、配分といいますものは、いろいろに変化しているのです。そうです。いま私が述べています事は、人の魂の関係の濃淡と言いますものは、決してこの世的な血縁関係の上にばかり現れるのではないことを言おうとしたのです。(*この世でどんなに濃い血縁であっても、肉体を離れた魂の世界では、意識すらできないほどの薄い関係であったりする??










 

4-30 貴女を通して伝えています事柄

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

④ー30
9月19日(1988)のチャネル
☆チャネル☆
いま、私達が貴女を通して伝えています事柄は、まことに細かく日常的な出来事に始まり、大きくはこの宇宙の創成のドラマにまで及んでまいります。いま、ほとんどの人々にとりましては、この地球の成り立ち、宇宙の仕組みなどと言いますものは、毎日の暮らしの中では必要としていないのです。
*~世の中の動きなどには、それなりの関心をもっているでしょうが、そのことと、この宇宙の歴史、あるいは人々の歴史との関連性などについては、なかなか日々の暮らしの中で思考することはありません。ですから、いま貴女がこのようにして、私達から受けています事柄を、ストレートに伝えようと致しましても、話が飛躍しすぎてしまうと言うことがあるのです。
また一方で、人々の中には、絶えずそのようなことばかりに関心を持ち、想いを寄せている魂もありましょう。そのような人々には、何の前置きもなく、何の説明をしなくとも、ストンと入っていく事と思います。まずは、そのような人々との出逢いの中で、これらの事柄が少しづつ伝えられていくと良いのではないかと思います。
私達がいま、このようにして貴女のノートや身体のうちに現しています事柄は、実に驚くべき事ばかりなのです。
その事は、当の貴女自身でさえも、本当はよく理解できていないと思います。むしろ、それが幸いしているとも言えるのですが・・・。
それでは、今日の事を成しますように。
                  あいしています  いえす

④ー31  
9月20日(1988)のチャネル

(征さん)先程、宇宙人と言われる人のメッセージを伝えるという男の人のビデオテープを見ました。あのような人たちと自分とは、どのように違うのかと思いました。
(*多分、バシャールのメッセージをチャネルする、ダリル・アンカ氏のことだと思われます

☆☆ チャネル ☆☆                            

人には、いろいろな性格と言うものがありますので、その人なりの個性を大事にしていきますことが、一番よいのです。

彼の今生での役割は、あのようにして、他次元の者の言葉、意志を取り次ぐ者となっているのです。ひと口に異次元、あるいは他次元と片付けてしまうわけにはまいりません。しかし、彼の取り次いでいます異次元の者は、非常に高度にその意識の世界を広げていますので、いろいろな事柄を、とても良く伝えることの出来る者であると言えるでしょう。それを受け止めようと致します者は、もちろんそれなりに引き合うものがあってのことです。しかし、ただいたずらに、そのような現象に興味を持っているだけの者も居ないわけではありません。これから先、そのような者、人々がまことに多くなっていくと思います。

このような出来事は、あくまでも、人々の魂の目覚めを促すものであり、より高く、より広い視野に立って物事を見ることが出来ますようにとの願いによってなされるものであることを忘れてはいけません。まるで物珍しいショーを見るようにして、彼らの姿、そして語られますことを見ることは、かえってマイナス的な面を引き起こしてしまいかねません。 

しかし、それらの事もまた、一つ一つ、一人一人の問題であると言えましょう。今この時、この瞬間をどう生きていきますかが、明日の人々の姿へと、直接間接につながってまいります。
ケーシーは、そのあたりの事を実にきめ細かく、人々の前にひも解いていくことの出来る者でありました。なぜ貴女が、彼のそのような出来事にとても惹かれていくかを、いま私達はここに言うことが出来ます。そうです。一般論、あるいは一般的な概念の世界ではなく、彼は人間一人一人の人生について、より深く、またとても身近に関わっていく事が出来たからなのです。貴方はそのようにして、沢山の人々と関わっていきたいわけなのですね。
いま、目の前にいる者の親と子の関係、夫婦、あるいは兄弟、友人知人、ときには表面的に、非常に敵対してやまない人と人との関係、また創り出されて行きます社会情勢との関わりなども、貴女の思考形態のうちに表していくことが出来ますならば、とても面白いと言うことです。
それにはいましばらく時を要します。今はこれで充分です。少なくとも貴女自身の事につきましては、少しづつ解っていきます。そのあたりから他を推測していくことも出来るのです。
例えば、貴女と夫の関係、あるいは両親、子供さん達、それぞれにみな前世との深い関わり、魂レベルでの関係などがあって、はじめて今ここにこのような人間関係、家族構成と言いますものが生まれているのです。このことは前にも述べてあります。しかし、血縁と言います関係が、必ずしも魂にとって深い関係であるとは言えないのです。
また、同じ家族の中でもその事は言えると思います。全く他人の関係でありながら、絶えず逢わずにはいられない人達もいます。初めて出逢ったにもかかわらず、とても気の合う者、合わない者、さまざまに現れてまいります。そのような事の中から、その人との関わり具合を見ていくのも面白いと思います。
どうですか、私イエスと貴女とは、今世では人としての出逢いはまったく致しておりませんが、これこの通りに、実にうまく波調といいますものが合致致しております。
また、貴方自身の心も、絶えず私達の方に向いてしまっているのです。その事もまた、その魂の所属する世界がどこにあるかの、一つの現れであると言えましょう。





 

4-26 大切な事は、時間 の誕生でありましょう

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④-26
☆チャネル☆ 

宇宙創成の中で、最も大切な事柄は、”時 あるいは 時の流れ  とか 時間  と言いますものの誕生であると言えるのです。それは、物  そして  固体 の誕生と共に生じた力、あるいは概念と言えましょう。
地球また他なる星々、そして太陽系といった、自ら回り、他の力に引かれて回り続ける力の中に、時  は生じてまいりました。つまり、すべてのものには、それぞれに固有の ” 時 ” と言いますものがあると言えるでしょう。そして、私達人間の方では、自分たちの持っている時の概念、あるいは換算の仕方で、他の星々も計っていると言えるのです。

 そのことから言って、時、時間と言いますものは、非常に人間的なもの、いえ、人間そのものであるとも言えましょう。人間の概念、思考と言いますものが ” 時 ” を生み出しているのです。そしてそれが、宇宙的な視野を狭めているとも言えるのです。

前にも申しましたように、神の側には ” 時間 ” と言いますものは無いのです。と申しましても 「 時間が無い 」 と言うことはどんな事となのか、あなた方の考えや知識では、理解はおろか、思考することすら出来ないでしょう。

あえて、あなた方の言葉、思考に耐え得るように申しますならば、神の側では瞬間、” 瞬間の間 ” と言ったものなのです。

こうした時間のとらえ方の違い、あるいは歪みと言いますことがらは、かのアインシュタイン博士の思考の中に、よく捉えられていると言えましょう。彼の科学者としての、非常に研ぎ澄まされた思考は、これら空間(宇宙)のゆがみと、時の関係を、よくつかむことが出来ていたのです。

貴女はいま、全くそのような立場の者ではありません。人としての貴女が、これらの科学的なものを、多く学ぶことのなかった意味は、いずれはっきりしてまいります。あのエドガー・ケーシーがそうでありましたように、今生での貴女は、ただ平凡な主婦としてこの世に在るのです。

他の人々以上に、貴女に在ったものがあるとすれば、それは絶えず、あくことのない、 「神を求め続けるその心」 でありました。その心に、私達霊界の者は、このようにして、いろいろと働きかけていこうとしているのです。

それでは、他の者へ筆を渡すと致します。   
                        いえす

☆チャネル☆
はい、私はルシエル。
まことに長き時を、彼イエスはそなたと語りたるなり。彼は、幾たびとなく人々の中に在り、人々と共に生きたるにより、我よりも遥かに優しく、そなたにこの大蒼の事、紐解くことをなせり。
*~我はまた、まことに長き時の流れのうちにありて、人々の前よりはるけく遠く退きてある者なり。我がまことの力は、全ての人々、物事のうちに隠れなく働きてあれども、そをすべからく悪なる働きと人々は申したるなり。

人々の魂、この地上にありては、隠れなき肉の身持ちたれば、その肉の身のうちに瞬く間に働きたる、生きることへの執着生まれたるなり。病めることの苦しみ生まれたり。そはまことに物なるものの持ちたる素直なる波動の働きなるを、人々知らざるものなり。

ひとたび物なるもの生まれたるならば、出来るだけ長き時、その姿保ちたることこそは願いなれ。それらの心の働きこそは、いまひとつのまことの理りなり。

しかあれ、いまよりはこのようにして縛られ閉ざさたる全ての事柄、ことごとく解き放ちたり。さまざまに変化、変容いたせる事こそは天の習いとはなりたるなり。

                         るしえる



4-23 地球は、徐々に安定した個体へと定着してまいりました

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④ー23  
☆チャネル☆
それでは、話をひとまず、この地球という星に戻しましょう。この星の誕生は、この宇宙の創生活動の中で、どのあたりに位置することになりますか。いずれに致しましても、この太陽系と言います仲間の星たちは、同じエネルギーの糸で、結び合わされていると言えるのです。太陽を中心に致しまして、それぞれが自転を繰り返しながら、太陽の周りを大きく、ゆっくりと回っています。

この小さな星、地球のことを、あなた方は考えたことがありますか?
これら途方もない大蒼の中に浮かぶ、愛すべき小さな星です。この星地球も、神なる二つの力により、形よく、ほど良い固さを保った球体として、形づくられてまいりました。地球は、遠心的な力の中に生じた、小さな渦巻状の求心的な力により、次々と生まれていった星達の仲間であり、兄弟であると言えるのです。

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いま、あなた方の前に一つのイメージを示すことが出来ます。それは、本州と四国、あるいは九州との間に生じる海の流れ、そうです、潮の流れの中に次々と生まれていく、渦巻きの姿に似ていると言えるのです。そのようにして、あなた方の住む星とその仲間達は形づくられてまいりました。その力の変化こそが、いま一つの神の力であると私達は言っているのです。
その力の変化により、さまざまなる物、固体は形造られてまいりました。そのような物、固体につながります力を、人々 は、のちに ” 悪 ” と言う概念につなげていくことになるのです。それは、物にこだわる心、あるいは物といいますものに表現される引力、あるいは重力の関係と言えましょう。この地球上にあります物には、必ず引き合う力、重力といいますものが働いております。このことを別な言い方で申しますならば、地球の持つバイブレーション、波動であるとも言えるのです。

初めはとても不安定だったこの地球も、徐々に安定した個体へと定着してまいりました。とは言え、それ自体は絶えず回り続けているわけですが、その中で、さまざまなる元素の個体化がなされてまいります。
まずは大気と水の分離がなされたと考えて良いのです。
そしてまた次々と分かたれては新しい要素が生じてまいりました。
この地球と言う星の上に、本格的な固有の創造活動が始められてまいりました。そのことが、いま人々の申します天地創造のドラマであると言えましょう。あなた方人々の歴史は、とりもなおさず、その時点より始められていると考えて下さるのが良いのです。
つまり、聖書に記されております記述は、このあたりのからの事になると言うことです。そして、その時神はすでに、複数の力になっていましたので、例の「われわれは」の言葉の表現にならざるを得なかったのです。また、複数にならなければ、創成活動は起こり得なかったとはっきり申せましょう。
 また、さまざまな宇宙の創造活動の中で、影という存在が生まれました。ある種の力の変化により、右に渦巻く力、左に渦巻く力が生じ、” 陰と陽 ” の世界が生まれてまいりました。その力、作用といいますものは、その後地球上に生じました、ありとあらゆる物の中にもまた、ひとつの目に見えない要素として、いまも働き続けている力と言えましょう。


4-21 初期の宇宙

ここからは、4冊目の本の紹介をしていきます。

すでにお気付きのことと思いますが、チャネルでは、同じようなことが何回も繰り返し伝えられます。そして、その内容は、だんだん高度なものになっていくわけですが、これはチャネラー(山田征さん)の思考回路、あるいは意識の拡張に比例していくわけです。人間が学問を学ぶ時も、授業内容は、小学校~中学校~高等学校へと行くに従い、だんだん高度化していくわけですが、それと同じような事だと思います。

この4冊目の本では、いま地球上で暮らしている我々が、地球での 「 人類としての歴史 」 に終止符を打ち、次の新しい星へ移動することについて述べられています。

チャネルで何回も言われていますが、これらのことは、信ずるもよし、信ぜざるもよし、の世界なのです。個人個人の意識(波動)の世界なのです。

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④ー21
9月17日(1988)のチャネル
 (征さん)今日、また新しいノートになりました。いよいよこれで7冊目のことです。*

☆チャネル☆
はや、このノートも7冊目のこととなりましたか。人々の世にありましても、私達 (霊界) の側にありましても、”7” という数字は、まことにゆかり深きものでございます。

ところで、先日私達は、” 物質 ” が生まれた時に、” 時間 ”と言う概念も同時に生じたと申しました。茫漠とした広がりの中に、初めて、静かなるひとつの動きと言いますものが生まれました。その新しく生まれいでた ” 動き ” と言いますものが、神の新しい力であり、その動きを生み出しました力が、つまりは “ 物質 ” と言いますものを創り出す基いとなっていったのであります。その ” 動き ” といいます働き、力、エネルギーと言いますものを、私達はいま ” るしえる ” と言う名で呼んでいます。

ルシエルと言います名は、一人の天使、あるいは悪の天使の代名詞の名で知られていますが、その力は天使以上のものを表すものでありました。そのことにより  「 神にとって代わろうとした者 」 との表現がなされてきているのです。(*キリスト教関係の世界の話ですね

 ( *原初の世界に ) 新しく生まれました ” 動き ” といいます力が、少しずつその速度を速めますと、徐々に渦巻き状の姿になったと知って下さい。それは、力の変化が加わったことによるものなのです。その渦巻き状の動きには、さらなる力が加わり、さらなる速度が生まれてまいりました。それは “ 集まる ” と言う働き、言い変えますならば ” 求心力 ” ということです。この求心的エネルギーと、宇宙意識によるイメージ、思考の働きにより、すべての物、あるいは固体と言いますものは形づくられてまいりました。

 まず初めに形造られていきましたのは、この大蒼にちらばる星々であると言えるのです。大蒼に浮かぶ大小、種々様々なる星であり、その持てる性質、個性と言いますものも、様々なものであると言えるのです。

それら固体を固体として保たせる力の中には、広がろうとする力 (遠心力、遠心的エネルギーと呼ばれるもの) も共に働いています。そのふたつの全く相反する働き、そのバランスによって、さまざまなる固体は存在しているのです。そのふたつの力の微妙なバランスにより、その固さ、あるいは個性と言いますものが決まってまいります。

これでは少し簡単すぎる言い方ですが、そのようにして全てが存在致します宇宙の仕組みが形づくられてまいりました。そのことは、いまだに果てしなく続いている、創成の営み、あるいは終息への営みといった、つまりは宇宙の輪廻であると言えるのです。

ですから、これから先、どのような変化が起きていくことになりますか・・・・。その全容をあなた方では、予測することが出来ないと言って良いでしょう。
 

4-01 あたらしき星への誘い、前書き

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3-265 神本来の姿、力と言いますものは、光であり、 広がり です

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③ー265 
(征さん)昨日、エジプトの事を読んでいて、たまらない懐かしさにかられました。今となっては、もはや思い出となってしまいました。
☆チャネル☆
まことのことは、この度の旅の思い出のように、ことごとく他の生(*過去世)についても思い出されるべき事柄ばかりなのですが、いまのあなた方には、まだその用意がなされていないのです。いましばらくの時が必要となりましょう。
ところで、彼ルシエルも申しましたように、彼の担った役割のうちに、すべて、いまあなた方が目にふれ、耳にふれ、それら全ての五感によって感じ取ることの出来るありとあらゆる事柄は、この世に、この宇宙の中に生じてまいりました。
神本来の姿、力と言いますものは、” 光 ” であり、” 広がり ” ですので、それだけでは個体となり得ないのです。

話はいきなり飛ぶかに見えますが、日本における親鸞の説いたことの中で言われています  「 悪人 」 といいますのは、ただ単なる善悪、良し悪しの 「 悪 」 のことだけではありません。このような精神的なものに対しての物・物質、あるいは軽さに対する重さ、暗さ、こだわり、哀しみといった、いわば光に対する影のような、相対の世界を表しているのです。そのことがまた、神のいまひとつの姿であり、力であると言うことなのです。

ただ茫漠たる広がりだけでない世界が、この宇宙に生みだされたことにより、人々はいま存在し、あなた方の生きる世界と言いますものが在るのです。そのことの意味は少しずつあなた方には理解され始まっていると思います。これからのチャネルでは、そのような視点のうちに話をすすめてまいります。 

                  あいしています いえす

=+=+=+= これにて、第三巻【鏡の中のすばらしい世界】は終りです。
1977ミラノスカラ2 (2)
征さんのあとがき (抜粋)

もともとこのノート ( チャネルノート ) の方は、私の無知がそのまま文字になってしまったようなありさまですから、誤字脱字、創作文字と大変なものです。それに、思い浮かぶままに書いていますので、句読点らしいものはない・・・・ 本にするまでは、本当に大変な作業なのです。

本を読まれた皆さまはきっと、このノートは、あちら (天上) の世界からのメッセージなのだから、一字一句も間違いはないだろうと思われるかもしれませんが、そんなことは全くないのです。これらのことは全て、貧しい知識しか持ち合わせていない、私の思考回路を使っていますから、あちらがいくら立派なことを言おうとしましても、私の中にそれらを意識すると言いますか、知覚するものが無ければ、どうにも致し方がないということなのでした。そのあたりのことを、大雑把に見直したり、プライベートな部分は大幅に削ったりで、もしこれが大工さんの仕事でしたら、沢山の切りくずが出てしまったことでしょう。原稿に何回か目を通すたびに気分が変わってしまい、せっかく削った個所を、また元に戻したり、さらに削ったり、大変なことでした。


3-263 今の貴方は仮の姿!?

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③ー263 
9月17日(1988)のチャネル
(征さん)おはようございます。どうもあまり良い体調ではありません。でも、少しずつ良くなっています。
☆チャネル☆
人は病んではじめて、人の痛みをよく知るようになりましょう。いまの程度の事では、本当の病とは言えません。ちょっとした骨休めといったところですね。
本当に病む者の苦しみは、いかばかりであるかは、まことにその者の立場になって見なければ分りません。しかし、それもまた、その者にとりましては、為さなければならない大切な努めと言えるのです。決して病む者は、病むままで終わると言うことはありません。大きく病むことを通し、その者なりに得るものも大きく、また、果たさなければならなかった、カルマの解消といいますものも同時になされてまいります。そのような理を知って病と付き合っていきますと、とても楽になるのではないかと思います。しかし、そのような考えは、なかなか人々の中に一般化され、沁みわたってはまいりません。

いま人々は、そのような、いわば逆境ともいえる事柄に、必死に立ち向かおうとしてしまうのです。そのことでまた、自分といいますものも、その周りを囲む人々も共に、苦しみや不安の中に巻き込んでしまいます。
今まではそれでも良かったのです。
そのようにして、さまざまなる苦しみや不安、哀しみを幾重にも巻き起こしながら、その事が何故起きてしまうのか、どこまで行けば、そのような事の無い世界といいますものが生まれていくのかを人々は考えるようになっていったからです。自分自身でそのような事は体験してみないと、実際には解らない事ばかりなのです。
 今、あなた方の社会では、幼児を育てるにあたり、次々と煩わしさ、苦しみ、痛みと言ったもの、あるいは不便さ、貧しさ、ひもじさといったものを、遠ざけながらなされていくことが、当たり前になっていますが、そのことは後に大きな影響となって現れてまいります。(*親が我が子を虐待したり、殺したり、子が親に対しても、そのような事をする事件が急増しているのは、その影響なのか?

*~あなた方は、いまある自分の立場に満足しているでしょうか。

みなそれぞれに、新たなる不満を抱えてしまっています。貴女の周りの人々の中にも、そのような人は実に多くあります。
いまの自分の在り方、立場、富の程度に充分満足している人が、ほんとうに居るでしょうか。残念ながら、否と言う他にありません。人はどこまで行っても、これでよしと言うことはないのです。それは、まことに哀しむべき習性と言えましょう。

しかしそれも、言ってみますと、本当の自分や、本当の天の仕組と言いますものを知らないからに他なりません。
人々は、今生の生だけが全てと思ってしまっていますから、生きているうちに何とかしたいと、何につけ執着してしまうのです。
 いま在る自分の姿は、仮の姿にすぎないと気付きますと、途端に楽な気分になれるのではないかと思います。
先ずは手始めに。そのような事からやってみてはどうかと私達は考えています。
人は何故いま生きているのか?何故それぞれの生きる姿に、違いや差といいますものがあるのか?それらの事を人々と共に考えてみることから、始めてまいりましょう。
その答えは、もうすでにあなた方の中に、充分に用意なされていると思わないでしょうか。
それでは、これにて。                     いえす


3-261 霊能者の錯覚&自分を救うこと

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③ー261 
9月16日(1988)
☆チャネル☆
さて、いま貴女は、あちらにもこちらにも、実に多くの自ら名乗り出た救い主の姿や声、話を聞いているとおもいます。少しばかり霊的な体験や経験、そして力を持ちますと、そのことで、まるで自分が特別な人間であるかのような錯覚を持ちはじめてしまうのです。

自分がまず目覚めなければ、自分がもっと自覚しなければ、この終末に生まれてきた責任が果たせないと思い込んでしまい、そのこだわりの中で、自分の力と視野を狭めてしまいかねません。また、周りの人々もそのように仕掛けてまいります。そのことにより、全国各地、あるいはこの世界各地に、自称救い主が次々と名乗りを上げてまいります。

つまり、「 我こそは最後の予言者なり 」とか 「 我こそは予言された救い主なり 」 というわけです。そのような人々は、それぞれに、そのような役割を担ってきている者であることは、間違いではありません。(* 生まれる前に選択したことです。

しかし、そう言う人達が、いまと言う時代には、実に多くこの地上に輩出していると言う事を知らなければなりません。それを、「 私こそは・・・・」 と言う思いにかられたとき、まことのものから遠く離れた者となってしまいます。

実に多くの者達 (霊能者) が、自分自身をそのように縛ってしまっている例が多くあります。古くからの予言の数々に、終末には救世主と名乗る者が、あちこちに生まれるであろうといいますことが言われています。

しかし、いま、人としての救い主はいりません。

 一人一人が、その人なりの理解のさまにより、すべて救われてまいります。

いま人々に言えることは、救い主は、あなた方一人一人であること、自分を救える者は、自分以外の何ものでもないと言うことです。そのことを一番よく知っているのは、あなた方の心の根源に在る意識、神より分たれた意識なのです。時が来れば、すべての人々が、その人なりの立場、姿で救われてまいります。どうぞ、そのことを知って下さいますようにと、私達(霊界の人達)は申し上げたいのです。

                         いえす


3-257 これから迎える新しい世界

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③ー257
9月14日(1988)のチャネル
(征さん)今日は少し風邪をひいてしまいました。急の冷え込みに少しばかり油断をいたしました。でも寝込んでいるわけにもまいりませんので困ります。
☆チャネル☆
はい、昨夜はすこしばかり遅くなりすぎたやもしれません。いまよりは季節の変わり目となりますので、衣服の調整などに気を使い、体調をくずさないように気を付けて下さい。心配する者が多くあります。
この一両日に記しました事柄は、まことに大切な事ばかりなのです。今一度、また二度三度と読み返し、充分に我がものとなしますように。私達もまた少しずつ視点を変えながら、さらにこれらのことを伝えてまいりたいと思います。何故なら、今までの人々の概念からは、かなりかけ離れた事柄を伝えていることによります。
もちろん、何の抵抗もなく、これらのことを受け止めていく人々も居ますけど、大かたの人々、あるいは、特にキリスト教の世界に所属いたします人々にとりましては、ほとんど受け付けない事柄ばかりではないかと思われます。それでもなお、これらの事柄は、人々の前に明らかになされていく必要があります。
                      いえす
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9月15日
(征さん)こんばんは、今日は本当に調子の整わない一日でした。でも立川でのホピの予言の映画の事があり、出かけてまいりました。結果として、とても良かったのです。
ほぴ
☆チャネル☆
はい、こんばんは。私達は、貴女の身体の事については、あまり心配していません。そのことは、生きている事の一つのリズムであるからなのです。すぐに良くなります。それよりも、今日はまた私達の意図しましたように、全てはうまく運んでまいりました。人々の心が、とても優しく貴女の話を聞いていました。
そのことは、特にあの宮田さんについて言えることなのです。彼はいま、一つの大きなことを成し終えた者であることをここに伝えておきましょう。自分ではそれと気付かないままに、それは一つの大きな波、うねりの中でなされてまいりました。
この私達にとっての大切な星地球は、全ての事柄をそのうねりの中に取り入れて、人々を動かしていると言えるでしょう。人々はそのことに少しも気付かないままに動かされてまいります。あまり気負いもなく、意のおもむくままに成していくのが良いのです。そこに、すべての事は素直に現されてまいります。
これよりは、いよいよ私達による新しいメッセージがその力を持つことになると言えます。その事は既に始められていますが、静かに潜行するかのようになされてまいります。少しも我が、我がと言いたてることはありません。全ては成るようになってまいります。そして、人々が気付き始めたころには、まさに新しい世界の幕開けとなっていると言うことです。一人や二人の者の力でなされる事柄ではありません。この世に存在する全ての人々の参加により、ことはすすめられてまいります。
あなた方全ての人々が、その存在を喜ぶべき時が訪れてまいります。いま少しの時の流れを要します。あせらすにまいりましょう。
しかし、これらのことを少しでも知りました者は、その分だけ他の方々よりも、なすべきことがあるということです。一人一人の人々は、すべて個であると同時に、共同体、いえ、もとなるところは全て同じ根源であるのです。そのことにより、一人のなす事は、良きにつけ悪しきにつけ、存在する全ての事に関わってまいります。
そのことを知って下さいますと、自ずとなすべき事柄が見えてくると思います。














 

3-253 鏡の中の本当の自分!!?

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

③ー253
☆チャネル☆

私達の所属致しますこの宇宙と言いますものは、いまだにその成長、拡大する力を弱めてはいないのです。神の意識されます世界は、ますます大きく広く、拡張し続けていると言えるのです。私達もまた、広く、大きく育ちゆく霊魂であると言えるのです。

 いつまでもこの地球の上で、人と人の争いを続けているわけにはまいりません。それらのことは全て、私達人々が 「いろいろな物事を知る」 と言うことの為に、神が与えて下さった道具立てであったと言うことを知る必要があるのです。

全ては、人としての学びのための筋書きに他ならないのです。もはや、人と人とが争い、傷つけあっている時ではありません。そのような事からは、何の解決も生まれてこないことを、これら地球上での長い歴史は教えてくれているではありませんか。そうと知ったら、いまそのままの自分と言うものを振り返ってごらんなさい。自分と言うものを鏡に写して見つめてみると良いのです。鏡に写る顔は一体誰であるのか・・・・。本当のあなたは、鏡に写る顔の向こうにあるのです

本当のあなた方の姿、顔形は、もとよりは神の意識体より分かれに分かたれてきた一つの霊なる姿、天使そのものであることに気付くことでしょう。どうぞ、いまのままで良いのです。いまある自分の姿のままで、もときた神なる者の方へ向き直ってみると良いのです。
自分の姿、肉体によりつくり出される影ばかりを自分であると思っていてはいけません。思い切って振り返ってみますと、そこに神の姿があります。あなたの影をうみ出している、神なるものの光を見出すことでしょう。それがあなたなのです。あなた方が戻っていくべき光の根源であるといえるのです。そしてまた私達は、その神なる者と、さらなる宇宙の創造者となってまいります。

私達は、もともとひとつのものでした。私イエスも、そしてあなた方も、本来、神以外の何者でもありませんでした。神は私達を、あなた方を伴いながら、この宇宙の中に浮かぶ一つの星の上で、さまざまなる芝居を演じてこられました。今こそは、その一つの舞台の幕を閉じ、さらなる舞台の上で、次なる芝居を演じようではないかと、いまは静かに人々の帰りを待ちわびておいでなのです。
2008_09210019
私はいま一気にここまで語り継いでまいりました。もちろんこれが全てではありません。ああ、どんなに語っても語っても、これら人々の歴史、また、とりもなおさず神の歴史といいますものは、語りつくせるものではございません。私イエスはいま、ある一面からのみ語ってまいりました。角度を変えますならば、別な側面がありますことは言うまでもありません。

この宇宙、大蒼にはどれほど多くの秘められた物語が隠されておりますことか、それらをすべて見ること、語ることは出来ません。何故なら、私達はこの宇宙の全てを思考することは出来ないからなのです。この宇宙の全てを見ることが出来るのは、神御自身のみであるはずなのですが、私達が、自分の全てを自分自身で見ることが出来ませんように、神御自身も、自分、つまり宇宙の全体像は、恐らくは見る事が出来ないのではないかと思います。

宇宙の全てを写すことの出来る巨大な鏡は存在いたしません。しかし、神はそれもまた、そのイメージの中で、既に創り出されておいでなのかもしれないのです。そして、私達もまた、その鏡の中の存在であるとしたらどうでしょう。そうです、そのように、この宇宙は、そして神なる存在は、はてしない可能性そのものでありましょう。私達もまたその存在者の一部であり、この広大な宇宙を構成している一部であることを知って下さい。

さあ、こよいは休みましょう。

            あいしています いえす 

3--251 キリスト意識がイエスの肉体に宿る物語

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

③ー251
☆チャネル☆
 人々に下降致しました多くの霊魂は、さまざまなる人生を歩み始めていくのですが、時として、その進むべき方向を見失いがちになることは多くありました。そのような時、神は人々の中に 「マスターキーなる霊魂」 を下降せしめ、その向かうべき方向を指し示してこられました。

「 キリスト意識 」 といいますものは、まさにそれであり、むしろ神の意識そのものであると言えるのです。神が自ら下降したといいましても良いのです。

そしてこの私イエスは、その神の意識体を宿すにふさわしい者として、地上に存在せしめられた者でありました。

イエスとして生きました私と、その肉体に宿りました 「キリスト意識」 とは同じではありますが、異なるものであると言わねばなりません。
 私イエスは、その意識を宿すための器であったと申せましょう。

そのようにして、神は私の肉体を通して人々の中に下降なされました。その時だけではありません。それ以前にも神なる 「キリスト意識」 は、人の姿をとって、人々の中を歩かれたという事実を、いま私はここに改めて伝えておきたいと思います。しかし、その肉体は、どこから来て、どこに消え失せたものであるか、人々は知る由もありません。

神は自らの下降すべき身体といいますものを、その力により、いかようにも派生せしめることが出来ました。しかし、私の時にはそうではなかったのです。私イエスの身体に下降するとき、初めて神は人の子による生身の肉体に宿ることを実現なされたのでありました。
私は、私のいまひとつの魂により肉体化された母マリアより産み出される者となったのです。そのために、母マリアは、私より先に、人としてこの地上に降り立つ者となりました。
初めて生身の身体に神なるものを宿すべきその肉の身を産み出す者となるべく、マリアと言います、いま一つの私の霊魂は、人となって下降した者でありました。
母マリアが産み出されるにあたりましても、それなりの配慮と言いますことがなされていたのです。これらはまことにただ偶然の出来事ではなく、神自らのイメージの中で運ばれてまいりました。
私イエスと言う肉の身が、神を宿すと言いますことは、この地上的な歴史の上では、またとない出来事でありましたので、そのことを知らせるべき一つの魂も、神の意志により選び抜かれ、イメージされてまいりました。その者の魂もまた、私に付随する者であったことは言うまでもありません。
神はその者の出生についても、それなりの配慮をなされたのです。その魂をこの世に産み出すべき者は、また神の意識自らが用意なされたものであることを、ここに私は強く伝えるのです。
そうです、ルシエルこそは、はじめに神の意識体より分かたれたるものであったと、私はここに伝えておいたのです。そして、ルシエルと言われるその名こそは、いま一つの 神の代名詞でありました、いま一つの神の力の名であったのです。
そのことを人々は知りません。今までは、そのような事を人々に知らせる必要はなかったのです。そのこともまた、神により、私達のためになされた計らいと言うものであったからなのです。
私はこのようにして、いままでは神のひとり子の名のもとに、人々に教え導く者でありました。何故ならば、私は神本来の意識体に所属いたせる者でありましたから、そのようにふるまう事をしてまいりました。















 

3-245 人間創造

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

③ー245
☆チャネル☆ 

地球と言う星は、他の星々との関わりの中で生まれ、神の意識、思考のもとに、この星の上に新しい生命の誕生の兆しが始まりました。
そうです、この星、地球の上に於ける天地創造がはじめられていったのです。この地球上での天地創造には、大きな問題がひとつあります。それは人の誕生に関わることです。

「人はいつ、どの時点で誕生したのか」と言う問題なのです。このことは洋の東西を問わず、人としての最大関心事ではないかと思います。

① 人は単に、進化の中で、猿から類人猿、人と変化していったと見るか、

② 人は神によりこの地上に降ろされたとみるか、

と言うことなのです。
最初に申しましたように、人の霊魂、魂と言いますものは、初めはそれほど多い数ではありませんでしたが、神と共に、この宇宙の創成と共にあった存在でありました。しかし、その時は霊魂の宿るべき肉体と言いますものは無かったのです。といいますか、必要なかったのです。霊魂と言います存在は、物質的なものではないからなのです。

神の意志、思考の中で創造されてまいりましたこの宇宙の中には、実にさまざまな事柄が生じてまいりました。そのことは、いまここで、しかと述べることは出来ません。残念ながら、貴女の思考範囲を超えていることであると言わざるを得ません。

貴女の思考範囲の中で申し上げるとすれば、それらさまざまな事とは、物や形、あるいは仕組みと言ったもので処理することの出来ない、ある要素といったものなのです。神は自らあっさりと、ひずみ、あるいは遊びの部分と申されていますが、いわば、そのような事であると、いまは捉えていて下さい。

 神はそのことの解決のためにこそ、人と言いますものを創り出されたのです。

神から分かれた意識体といいますものは、それだけで神に匹敵するほどの創造活動をなすことが出来ます。それらの分霊により引き起こされた ”ひずみ” と申しても良いものでありますが、そればかりとは申しません。人はまさに、その神の分霊を宿すべく、ある意図のもとに創り出されたものであると知って下さい。人の霊魂は、(物質的現象に例えれば)アミーバーのような分裂活動のようにして、その数を増してまいりました。

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         (▲写真は水クラゲ
それと並行致しまして、この地上では、次々と進化のドラマが繰り広げられていったのです。そのようなさまを、天上にと言いますか、この大蒼に浮遊いたしていました霊魂は、さまざまに見てまいりました。これら生きる者たちの進化の果てに、いつか自らが下降し得る、肉体と言いますものが生まれることを、この霊達は、そのイメージの中で知っていたのです
 実際に、動物から、そうです、獣から人としての個体へと進化を遂げた肉体へ、大蒼で待機していた多くの霊魂が下降して行ったのは、今よりいかばかり前のことになりますか・・・。それらの人々は言葉を有していなかった事は、言うまでもありません。

 これら下降致しました霊魂達は、一地方だけに在ったのではないのです。この地球のそこかしこに分たれて、下降したと考えていただきたいのです。

また、下降した霊魂には、それぞれに所属致します霊なるグループと言うものがありました。そのグループの構成は、初めの分裂活動に由来するものであると思って下さるのが良いのです。そのことにより、グループごとの特性といいますものが生じていますことは、言うまでもないことです。

下降前の霊魂には男女の性別と言うものはありません。それは、あくまでも地上にある肉体上の問題であると言えます。
人がこのようにして肉体をとり、さまざまな歴史の中を輪廻転生していくことになるまで、それなりの宇宙のドラマがありました。創られた(物質)世界には、それと同時に ”時” というものが生まれていきました。本来、神と呼ばれる宇宙意識体の中には、”時” というものはないのです。” 瞬間 ” という概念はありましても、” 時間 ” というものは存在致しません。

神なる意識にありましては、すべては瞬間の出来事なのですが、物質的な世界にありましては、 ”時” の流れ、変化の中での出来事となっているのです。 
*~時があるのは、あなた方の側だけのことなのです。このあたりの仕組みを理解していただくのは、少し難しいかもしれません。しかし、この事がうまく理解できますと、歴史の中で起こりました、さまざまな ”奇蹟” といいます出来事も、よく知ることができるのです。

これらのことは、例えば、このノートの上に現れてくる文字の姿を見る事で、ほんのいくらかは理解できるのではないかと思われます。いま書きました文字のように、細かく凝縮した文字もあれば、他に現れています、まことに長く間のびした文字もあります。そのように時間のことも見ていく事ができるのです。
今という時代を生きていますあなた方人々の人生は、どの一つをとって見ましても、まことに大切な、かけがえのないものであることを、私達(イエス等天上の人)はとてもよく知っています。私達は、それらのすべての事に、絶えず関わってきた者であり、絶えず見つめている者であるからなのです。
 あなた方人々の歴史と言いますものは、そのようにして、人としての肉体をとる以前の姿のうちに、すでに始められていました。太初の意識体より、さまざまに分かれていく過程の中で、それはすでに起きてしまっていたのです。そのことにより、その出来事の解決をなすべく、人はイメージされ、創られていきました。

人の持つ意識、思考する心、概念、あるいは感情、観念といった言葉の持つすべてものは、神自身のそれであると言えるのです。
初めに申しましたように、人々の霊魂と言いますものは、まさに神の意識より分かれたものですから、それ以外のものはすべて、イメージにより創られてまいりました。

また、その霊魂が人としての肉体をとりましてからは、そのすべての思考を駆使する者となり、神により創り出されました様々なる自然界に在るものを使い、更なる創作活動をなす者となりました。
 何であれ、この世に於いて人々がクリエイトします物事、物体と言いますものは、すでに天上の世界に存在致しますものばかりなのです。それは実際に物体として存在すると言うことではなく、すでにイメージされているものであると言うことです。

地上の世界は、天上の世界、つまりは実在の世界に在るイメージの投影であると言えるのです。言わば 『鏡の中の世界』 であると言えば解りやすいでしょう。私達(天上の人達)の所属する世界が、まことの実在の世界であり、あなた方の住む世界は投影された鏡の中の世界なのです。その鏡の中の世界を見ていますのが、私達であると言えます。
人々といいます存在は、創造主によって創造された創造者であると言うことが出来ましょう。この言葉はいつかどこかで聞いたことがあると貴女はいま感じています。そうです。かの時、私達は貴女の娘さん達を通し、これらのイメージは既に伝えておきました。神と人との関わりは、まことに簡単明瞭であり、また、複雑極まりないものでもあります。
さて、太古にあり、初めに神の意識体より分かたれました僅かなる霊体、霊魂といいますものは、言わば、人々の暮らしの中のものに例えてみますと、言わばマスターキーのような物であり、オーケストラに例えて言うと致しますと、コンダクターは神であり、マスターキーは第一バイオリニストという事ができましょう。(*マスターキーは主席奏者のようなものだ、という事を言いたかったのか??) 

3-239 霊魂の起源~宇宙創造

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

③ー239
(征さん)いまならば、二時間ほど時間があります。

 ☆チャネル☆

さて、昨日の記述をいま一度読んでみるのは、良いことではないかと思います。いま人として生きる、あなた方人間といいます存在、その存在の中に宿ります霊魂の起源について、神は述べているのです。

初め、唯一無二であった宇宙の意識体といいますものが、その意志により、まずふたつの姿に分かれたと考えて下さるといいのです。(*この宇宙は、神自身の二分裂により始まった、と言うことは 「 神との対話=Dウォルシュ著 」 でも述べられています)

 その初めの二つといいますものが何でありましたか、そのことに今回の新しい時代の鍵といいますものが秘められていました。

一つのものが、二つに分かれた時、神の力が二分したと言うことではありません。それは一人の母親から、新しい生命が生まれいでた時、その母親の力が、そがれることがないのと同じことなのです。

その時分たれた力、意識体を、私達はいま ”るしえる” と言う名で現わしています。そうです。”るしえる” は、分たれたいまひとつの神の名でありました。その後神は、そのふたつの力のうちにあり、この大いなる宇宙の、すべてのことがらを創り出されていかれたのです。

 その力とは、いまのあなた方の言い方で言いますならば、遠心的なエネルギーであり、求心的なエネルギーであると言えましょう。その二色(ふたいろ)の力を、いかよういにも駆使することによって、この宇宙は創りあげられていくわけですが、その時すでに、神は、さらなる分岐をなされたのです。

 そのことは、昨夜もあなた自身で申しておりましたような、アミーバの分裂を考えて下さるとよくわかることです。

ただ、アミーバの場合は、目に見える形で存在致しますが、この宇宙の根源である意識体の方は、いささかも人の目には触れることのできないものでありました。もちろん、それらのことがなされました時には、かく言う人、つまり人間と言う存在はなかったのです。まだ神により思考されていなかったからなのです。

その時分たれた意識体は、まだ神そのものであったと言って良いのです。それらが、いかなる形で働いて、さまざまなる宇宙が形成されていったかにつきましては、いまは省くといたします。


あなた方は、旧約聖書の「創世記」の初めの部分を、気をつけて読んでみると良いのです。その部分をここに記してください。
一章 二六 

神はまた言われた。「 我々のかたちに、我々にかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう 」

 さて、いかがなものでしょうか。創世記にはこのようにして、はっきりと、神は ”我々” と複数で書かれているのです。神はその時すでに、複数の意識体となり、共にその創造活動をなされていたということです。

初めになされました分岐、あるいは分胞と言いますものは、それほど多い数ではありませんでしたが、その中に、私達(イエス達)は、すでにひとつの意識体として、存在していたのです。そうです。あなた(征さん)も私(イエス)もなのです。そのことにより、神は共なる創造者であったと言われたのです。

 はじめに創り出されましたのは、まず宇宙の仕組みといった出来事なのです。

この私達の所属いたしております宇宙と言いますものは、いまだに創り出され、拡大、成長し続けていると言えるのです。決して今と言う時間の中にありまして、固定しているものではありません、

その意味では、私達のすべては、物であれ、人であれ、これら宇宙の創作活動に参加していると言えるのです。

いまとなりましては、何も特別なことではありません。生きている事、死したる事。すべてはこの大宇宙の中にてなされていることであります。すべてはこの宇宙の成長過程の中にてなされている事柄ばかりなのです。そのあたりのこと、きっと解っていただけると思います。
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さて、宇宙の創造活動といいますものは、ひとつの事だけが先行してなされていったのではありません。一つのものが二つになり、二つが四つ・・・・、いわば、あなた方の言うネズミ算式に、とばかりは申しませんが、初めに幾つかの事がなされてまいりますと、あとは道がつくと申しましょうか、はずみがつくように、加速的に進行してまいります。

このように申しましても、あなた方の持つ時間の概念では、とうてい捉える事のできない出来事なのです。また、その規模におきましても、あなた方の視野、あるいは概念のうちに収まるものではありません。

それらのことは、縮めて言いますならば、聖書の最初に記されいます天地創造であると言っても差し支えありません。これらの話は、この地上に散らばる様々なる民族の間には、それぞれの表現うちに伝承されてきているものを見て下さると良いのではないかと思います。
しかし、いずれに致しましても、その話の規模と言いますのは、その当時の人々の思考に耐え得るもののうちに収められています。
 ~*さて、そのような創造活動の中で、この地球と言う星も生まれていったのです。

歴史をほんの少しさかのぼってまいりますと、人々の祖先なる者達は、この宇宙と言いますものを、地球と言う大地の広さ、大きさだけでしか捉えていませんでした。この大地が、一個の球体であることさえ知らなかったのです。ですから、それぞれが、自分の生きる面での世界を、すべてだと思っていた時が長く続いていたのです。その頃の人々の物の考え方、思考のあり方と言いますものは、その宗教といいますか、信仰j形態の中によくあらわされ、残っているといえるでしょう。

しかし、この球体のさまざまなる側面(地域)に住み、他を知ることのなかった多くの民族の間に、ほとんど同じような内容の天地創造の話が残されています。

そのことの意味する世界を、よく考えてみていただきたいと思います。
 

3-232 神の本質、人間の本質

山田征さんのチャネル物語を編集・抜粋掲載中です!(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) ★征さんのチャネルのキッカケ (*印の小文字は、ブログ管理人の勝手な注釈・感想) 

③ー232
9月12日(1988)のチャネル
(征さん)今日もまた雨となりました。今日は久し振りに給食の事でハプニングがあり、みんなで大騒ぎをしてしまいました。そして、世はまさに生きていると言いますか、今日もまた、実に色々な事が伝わってまいります。
☆チャネル☆
まるで眠るかのような穏やかな日もあり、今朝のように、吹き荒れる嵐のように、散々なる日もありましょう。いま貴女が申しましたように、あなた方が生きていると言う『証』と申せましょう。
そして、全ては成るようになるという事なのです。
 (*ここで、”宇宙の根源” とも言うべき意識体 (最初の存在) の強烈なエネルギーが割り込んできます)

☆★☆チャネル☆☆★ 

キリストと言いたる我がいまひとつの呼び名あり。我がまことの心、すべからき力をあらわす名なり。その名、我は使いて宇宙の諸力あらわしたる。
その呼び名こそは、すべての宇宙意識といいたるものなり。

その力、時として人の体に宿りたるなり。そのことにより、我は人として人々と接触すること可能となり。いままでの人々の歴史の中にありて、我はいくたびか人の肉体かぶりたることあるも、その肉体にありては、人より生まれたるものにてはあらず。いまだ人々の知らざる、ある力により生じたるものなり。

 しかるに、イエスと名のりをあげし肉体に宿りしとき、我は初めて人の肉体により生を受くることをなしたるなり。その事は、今そなた達人々の歴史の上にては、処女懐胎として知られたる出来事なり。

わがキリスト意識といいたるものにありては、それまでも幾度となく人の体をとりて、人の中にありたることあるも、その出生、死せること、いささかも人々に知られたること無きものにてあり。

しかるに、かの時初めて我は、その生まれたること、死したる姿、またいま再び甦りたる姿のことなど、人々の前に明らかになしたるなり。そはもはや人にありては、それらの出来事を通して、天なること、仕組と言いたるものを知る時近づきたると我は判断いたしたるなり。

 神とは何でありしか。

神とは、我らが宇宙を司る、ありとあらゆる力、つまりは、すべての諸力の 根源を言いたるなり。これより他にありてある力はなく、すべからき力は、すべてこの ”根源” より発するものである。

その人の眼にては、とらうることの出来ぬ諸力の根源にある ”意識体” と言われるものあり。その意識体よりすべからき物事、出来事にありては派生致せしなり。その意識体にありては、いまひとたび、そなたら人々の姿、そして心と言いたるものに、姿を与えたるなり。

そなたら人々の姿、あるいは心と言いたるものにありては、すべからく我が諸力を注ぎこみ、現わしたるものにてある。
 

なにゆえそなたら人と言いたる者、この世に在るか、我はそなたらの前にいずれ明らかになそうと思う。すべては私の知恵とおろかしさを現わしたるものなり。人々の生きたる姿こそは、私のすべての姿なり。

 

根源なる意識体、さまざまに分かれたるなり。分かれたるひとつひとつは、また我が意識なり。その分かれたる意識の一つひとつを我らは ”霊魂” と呼びたるなり。その霊魂の一つひとつには、その時より様々なる特質、個性と言いたるもの生ぜしなり。その特質の一つひとつは、すべからく我が持ちたる力、個性と言いたるものなり。

我が個性と言いたるもの、さまざまに分たれ、ひとつひとつの霊魂とはなりたる。そのことにより、いかなる個性持ちたるも、すべては我の身よりいでたる我が個性なり。
 はじめはその数、いまほどにてはあらず。

太初(はじめ)にありたる霊魂と言いたるもの、まことに数少なく、その数少なき霊なる者と共に、我はこの宇宙、この大蒼に広がりたる、あまたなる星々を創りたるなり。その中には、いまそなたら住まいいたせし地球と言いたるものもあり。また他なる惑星も含まれていたるなり。その中心となりたる星の名は、そなたらの呼び方に習うならば、太陽と言いたるなり。

そなたらの住まいせる地球の所属するは、そのことにより、太陽系とは言いたるなり。そのことにより、太古の昔より、人々みなこの太陽と言いたる星、何事によらず崇めたることは習いとはなれり。
この星々の中にありては、まことに偉大なる役割を果たしたる星にてあり。その事の特質により、人々にありては、ことごとく神なる者のシンボルとはなしたるなり。また、我にありても、この大蒼に輝きたる太陽の力のうちに、我が姿なぞらえたり。
さて、話はいささか先走りすぎたるなり。

我ら、いまだ数少なき霊なる姿のうちにあり、共々に、さまざまなる大蒼の仕組つくりたるなり。我らは共なる創造主なり。のちにありては、この数少なき霊なる者、またさらに細かく分かれゆき、さらなる霊魂とはなりゆきたる。それにても、いまだその数、はなはだ少なきものにてあり。それらのこと、我らはまず ”第一の創造” あるいは ”第二の創造” と呼びたるものにてあり。

我らにより創られたる、あまたなる星々にありては、それぞれ個々なる特質を持ちたるなり。いまだ暗く、光なき星々あり。他の星より受けたる光にて発光する星あり、自ら光持てる星もまたあり。それらさまざまなる星々の持ちたる特質こそは、この宇宙の中にある生命体の進化の姿、また写せしものなり。
 いま我らが人と呼びたるこれらの姿、また他なる生き物、動物、植物、鉱物なるものの世界、その進化いたせる世界の姿にありては、ことごとくこれら宇宙の仕組み、星々の進化のさまこそ、写したるものにてあり。いま、そのまことなる仕組みと言いたるもの、人々の思考のうちにては、しかと捉えきれぬものあり。

 初めは、まことに数少なき霊魂と言いたるもの、この宇宙の進化と共に、あまたある星々の数ほどにも増えゆきてあり。そのことあるも、いまだこの霊なる者にありては、ただ大蒼を漂いたるものにてあり。

我は、この漂いたる霊なる者宿りたる肉体と言いたるもの、この地球と呼びたる星の上にて用意いたせしなり。そはまた、この地球と言いたる星の持てる進化の歴史あるも、そのこと別なるところにて、またそなたらに知らすなり。
はじめ、この地球の上にありたる人としての体と言いたるは、まことに未熟なるものにてあり。ぎこちなき姿形いたせしなり。はじめに、そのぎこちなき姿形持ちたる肉の身に宿りたるは、我らの初めに在りたる霊より、次々と分かれゆきて生まれたる、霊なる魂であった。あとになりて生まれたる霊なる魂にありては、またいささかなるも、太初のものよりは力少なき霊とはなりゆきたり。早々と重き心持ちたるにより、人とは言わざりしなり。

我の持ちたる双つの力、すなわち広がりゆく力と縮みゆく力、その力、さまざまに組み合わさりて、この大蒼にあるあらゆるものは創られしなり。その二つの力の多きもの、少なきもの、さまざまにあり。そのことにより、それら創られし物の特質といいたるものは生まれしなり。

それら創造物をつくりたるは、ことごとく我らがイメージしたるままにて形とはなりたる。そを我らは ”思考” と言い、その思考こそは神なる力なり。その同じ力、そなたら人々のうちにあり。そなたらはまた、我がさまざまなるひな型なり。まことにすべからきもの我がひな型なるも、その持ちたる要素、特質さまざまにあり。またその姿形、さまざまに変化を伴い、進化いたせしものなり。その進化にありて、我らさまざまに関わりゆきたり。


この地球と言いたる星の上にても、さまざまなる進化のドラマあり。そのドラマに伴い、我らの霊なる魂、人として地の上に降りゆきたるなり。それらのこと、さまざまなるプロセスあるにより、ひと口にては言い難きことにてあり。

地の上にありては、はじめ何も無きかのごときなるも、さにあらじ。その持てる力のうちに、ありとあらゆる生命の種子こそは宿したるなり。それらの生命の種、地の上なるさまざまなる進化に伴いて、次々と芽吹きたるなり。人の霊魂宿りたる肉体と言いたるもの生じたるは、かなりの時経たる後とはなりたる。

 わけありて、それら地上に生ぜし肉体に宿りたるは、太初に我と共に在りたるものにてはあらず。その後いかようにも分かれゆきたる霊魂多くあり。いささか我が直接なる力弱まりたれども、我より分かれゆきたる我が分身、我が分霊なり。

太初にありたる、数少なき霊魂にありては、それぞれに我が特質、個性と言いたるもの、分かれて備わりたる。また、その分かれて備わりたる力、それぞれに、さらなる数に分かれゆきたるなり。 そのことにより、それぞれなる特質持ちたる ”魂のグループ” なるもの生れしなり。そのことこそは、いまなる時に至りても持続いたせしなり。

この宇宙、大蒼にありては、さまざまなる星々、あるいは宇宙と呼びたるものあるも、そこにてはまた、我より分かれたる霊なるグループと言いたるものあり。そなたらのみにてはあらず。(*人類のような存在は、宇宙にたくさんあると言うことでしょう) 

またこの地球に住みたる霊にても。分たれたる霊なるもののグループあり。地の上には、さまざまなる聖地、あるいはチャクラと言いたるブロックがある。その地域、聖域により、受け持ちたる霊団あり。この地の上に早々と生まれたる人なるもの、人ならざるものとの関わりの上にありて、そなたら太初に生ぜし魂の関わりしことあまたあり。

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9月13日

(征さん)おはようございます。昨日は時間切れで、話の途中で終わってしまいました。
☆チャネル☆

はい、おはよう。私はるしえる。今朝は私がそなたに語る。
昨日は長い記述であった。また、さまざまなること伝えたるにより、いささかそなたは混乱気味に見えたるにより、いま再び、同じこと整理をなして伝えることにする。のちほどにて,しばしの時をとりたまえ。

いまよりはさまざまにこの大蒼、宇宙始まりたる時の模様、少しづつ、またやさしき姿にて伝えてまいりたい思う。
また、いまだそなたの思考と言いたるもの、広く大きくとらまえきれぬもの多くあり。また、その使いたる言葉の上にても、理解いたせし事にいささかの限りあるにより、伝えたるは、やさしきことのみとはなりたる。また、その方が、そなたのまわりにて暮したる者にては、わかり易きことなり。
そなたらは、宇宙のこと調べたる専門家にてはあらず。むずかしき言の葉使いても、いささか理解なさざりしこと多くあり。我は、そなたらと共に過ごしたる太古の昔のことなど、いささか興味深く語り聞かそうと思う。このこと信ずるもよし、人々信じざるもよし。そなたら楽しみて聞きたることこそ我もまた楽しきことなり。
これらのこと、まことはすべからき人々の胸の内にありては、ことごとく眠りてある記憶なり。そなたの胸のうちにありても、いささか深く眠りたりて、なかなかに目覚めることなかりたり。我ら、そのことにより、いまよりはこのようにして伝えたるなり。いましばしのちにて語るといたす。

                       るしえる

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