◎ なまじ聖書など知らぬ者には、私達のこの肉体を形づくり、生命を維持しているものは、『非常に高度なエネルギーそのものであります。』と言った方が、ずっと通じやすいのです。

◎ バイブルには、もっと大きなものが隠されています。表面的にだけとらえますと、いろんな矛盾が生じますが、その奥には宇宙の大きな、気の遠くなるようなドラマが秘められているのです。

 山田征さんのチャネル物語①(1988)から編集・抜粋して掲載しています。(現在はチャネリングを休止され別活動をされています) 

◎ 社会の人々のほとんどが、神の民として選ばれたイスラエル民族のことを、いわゆる ”選民” という言葉で言い表してまいりました。 ~ 本当の ” 神の民 ” の意味は、、人々の前に指し示されました ” 犠牲の民 ”であったのです。それは、まことに私イエス・キリストが、神の生贄(いけにえ)として十字架にかけられ、人々の前に示されたのと同じ形でした。

◎ あの書物は、一般に思われていますような、いわゆる 《 道徳の書 》 ではありません。神によって、神の道を生きることを命ぜられた、一つの民族の生きた証の書物であるという事なのです。~ その中には、様々に生きる人々の、ありとあらゆるひな型が示されているのです。肉の身にあって生きる者の何と弱きものであるかを、あの書物は、あますことなく記録いたしております。


◎  私イエスの教えはあくまでも、最も貧しい人々のものであり、最も力を持たぬ人々にもまた、神は同じように愛の心を差し向けていられるのですよ、ということを伝え、希望を持っていただくことでした。もちろんそのような人々の為だけとは申しませんが、~ 『神の愛、神の心は、全ての人々に同じように注がれているのですよ』と言う事を伝えてあげたかったのは、まずそのような人でした。

◎  時代が変わってまいりますと、小さな集落ごとにありました集会の場も、いつの間にか、立派な、それこそ神への礼拝専用の建物が造られていくようになりました。旧き宗教、信仰形態を破ったはずのものが、すぐまた元の形となってしまったと言えなくもないのです。

◎  人々は、いつでも十字架の裸の私に祈りを捧げる者となったのです。直接神なる存在へ思いをつなぐのではなく、イエス・キリストとしての私を通して、神へ祈りを捧げることになりました。 ~『偶像は拝まない』としながらも、私にかたちどった、さまざまなる偶像に手を合わせる者となりました。人々は、いえ、多くの聖職者は、そのことの矛盾に、いささかも気付かずにこの時まで来てしまったのです。

◎  私イエスは、神の御心と同じように、人々の心の在る所にはどこにでも等しく在るものである事を知っていただきたいのです。どのように立派な教会が建とうとも、宗派が出来ましょうとも、私達は決してそのような物の中にとどまる者ではございません。

◎  あのアダムとイヴのお話が誕生いたしました時、この地上にはすでに、他の多くの民族の生存があったと言う事を知る必要があります。~アブラハムを更に逆のぼること二千年の彼方に、このドラマの始祖であるべき、アダムとイヴが何故置かれたのかを、もう一度、あなた方は考えてみなければいけません。ただ額面通りに、あの聖書を読んでしまってはいけないのです。これらの事柄は、決して恐れることなく、今こそ人々の前に明らかにしていくべき時に至っているのです。

◎  現代社会の機構の中では、聖書に記された事柄と、科学的に見る進化論とのあまりの差、ギャップにあい、 ~聖職者の中にありましては、神への信仰と、科学の世界での事実関係との間を、どう埋めたら良いのか、どう理解すべきかに苦しむ者が多く存在いたしております。

◎  今ここに来て、どのように大きく世界が変化し宇宙的な出来事の中に 私達が存在しているかを知るべき時でありますのに、彼ら聖職者はまだ、ひたすら聖書の中にだけその答えを見ようとしています。もちろん、聖書も本当によく読み込んで下されば、これらのことの片鱗は、そこかしこに散りばめられ語られているのですが、その大事な言葉の大部分は、この歴史の中で、無理解と無知の上で切り捨てられ抹殺されてしまっているのです。

◎  これら天地創造の物語は、いわゆる、あなた方の言う一元的な物の見方だけでは、解決いたしません。このことにより、いわば科学的進化論が正しいとか、聖書の記述は間違っていると言ってしまうことは出来ません。そのどちらも真実であると言いますことを今のあなた方に理解を求めるのは難しいのです。